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エピローグ — 小さな光は続く(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  暁晶は完全に元へ戻ったわけではない。欠けた爪痕や代償は確かに残る。しかし、世界は再び輪郭を取り戻し、人々は選ぶことの重みと尊さを噛みしめた。虚竜ヴェルドは影として存在し続けるが、その存在はもはや単純な破壊者ではなく、忘却と対峙するための警鐘でもある。

 物語は終わらない。人々が名を唱え続ける限り、黎光は新しい担い手たちに渡り、暁晶は小さな光を保ち続けるだろう。カイとその仲間たちの旅は、いつしか伝説となり、新しい語り部たちに織り込まれていく。だが語り継がれるのは単なる勝利譚ではない。忘却と選択、痛みと再生の話だ。

 空は静かに暗くなり、星がまたたく。どこか遠くで、ヴェルドの咆哮が低く響く。それは終わりではなく、「これからも続く問いかけ」だ。

 そして、桟橋の端で短剣を握るカイは小さく笑った。波は寄せては返し、彼らの物語もまた、寄せては返す人々の記憶の中で生き続ける。

第十七章(終章) それぞれの旅立ち — 小さな光を抱えて(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  幾つかの月日が流れた。暁晶の欠片はいくつかが完璧に戻り、塔は再び守りの光を放つ。人々は選び直し、傷を抱えながらも前へ進む術を見つけた。ヴェルドは核の側に留まる決意をし、完全な敵として滅ぼされることはなかった。彼の存在は警告となり、また守りの一端としての教訓となった。

 旅団の仲間たちはそれぞれの道を歩み始める。ユイはアークで写本の修復と詠唱の教育を行い、古語を守るための図書館を作る。ガロはかつての仲間たちを追い、レオンの背後にある更なる陰謀の痕跡を洗い流すための旅に出る。トウヤは路地で小さな劇団を作り、子どもたちに物語と注意深い選択の大切さを教える。リナは巡礼を続けながら、失われた記憶を新しい儀式で埋めていく。カイは港に戻り、だが以前とは違う。彼は短剣を海辺の杭にかけ、時折遠くへ旅に出ることもある。黎光の担い手としての責務は終わらないが、彼は人々の声に耳を傾けながら小さな光を分け与える道を選んだ。

 ある夕暮れ、カイとリナとトウヤとユイとガロが再びノースリーフの桟橋に集まった。海は静かに光り、遠くにヴェルドの影が浮かぶ。彼らは笑いを交わし、互いの肩を叩いた。

「これで終わりってわけじゃないな」――トウヤが言う。

「終わりは、いつも次の始まり」――ユイが補う。

 カイは波を見つめ、短剣を軽く握った。「でも、今日ここにいるのは、一つの区切りだ。これから先も、誰かが選択を迷うとき、僕らは名を呼び、手を差し伸べる」

 彼らは夜に灯る小さな祭りへ向かった。子どもたちが歌い、老人が昔の名前を口にする。焚き火の周りに集まる人々の顔には、確かな輪郭があった。忘却の影は消えないが、人々はそれを恐れずに選び直す術を学んでいた。

第十六章 選び直す世界 — 再生と代償(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  暁晶の核が完全には復元されないまでも、再び輝きを取り戻したとき、周囲の世界が徐々に変わり始めた。塔に宿った欠片はより安定し、風や炎や水や土の守環は以前より確かな調和を見せる。人々の記憶も戻りつつある。だが代償は確かにあった。リナはいくつかの個人的な記憶を失い、その代わりに新しい役割を得た。ユイは書庫で消耗し、知識の一部が薄れた。ガロはレオンのことを完全には赦さないが、己の守る意味を新たに定めた。トウヤは旧知の死に泣き、しかし自らの選択を肯定する道を歩み始める。カイは父の短剣を握り、黎光の担い手としての使命をより深く理解した。

 ヴェルドは核の脇に座し、鱗の一片を人々に返すわけではなかったが、その巨大な体はもはや無差別に虚を撒き散らすことはなかった。彼は孤独な存在のまま、だが世界との新たな均衡の中に留まる道を選んだ。人々は彼を完全には信頼しないが、少なくとも今は「敵」ではなく「難しい守り手」として受け止められていった。

 世界は完全に元へ戻ったわけではない。記憶は戻り、名は再び唱えられるが、新しい痛みも伴う。人々は自らの選択の意味を見つめ直し、忘却の安易な救済に頼らない共同体を再構築していった。小さな祭りが増え、名を祝う儀が各地で行われた。ユイは学術都市に戻り、写本の保全と語り継ぎの制度を整備する仕事を始め、ガロは失った仲間のための慰霊を続け、トウヤは路地で子どもたちに糸の仕込みを教え、リナは巡礼を続けながらも自らの失った記憶を時折取り戻すために静かに祈りを捧げた。

 ある日、カイは静かに海辺の桟橋に立ち、空を見上げた。遠くで、ヴェルドの影が雲の合間に滑るのが見える。彼は短剣を握りしめ、柔らかく呟いた。

「忘れることを与えるのは簡単だ。でも、その代わりに何かを失う。君たちは、その何かを取り戻す道を選んだ。……それでよかったんだ」

 遠くから、リナの声が波音に混じって聞こえた。「私たちはまだ、学ぶ途中よ。けれど、あなたがいてくれるから大丈夫」

第十五章 核の最奥 — 暁晶と虚の過去(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  名の列が広がり、集団の選択が十分に満たされると、核の門は完全に開いた。光の通路を踏みしめ、旅団は最後の段へと進む。通路は言葉と記憶の「層」でできているようで、歩くたびにそれぞれが自分の過去の断片を見ることになる。カイは幼い日の父の笑顔を、ガロは仲間と交わした誓いを、トウヤは失った家族の面影を、ユイは学術への純粋な憧れを思い出す。リナは多くを既に差し出しているが、それでも深い祈りを続けることで皆を導いた。

 通路の終わり、そこには巨大な空間が広がっていた。中心に浮かぶのは、かつての暁晶の核――だが完全な結晶ではない。核の表面はひび割れ、そこから黒い瘴気がにじみ出している。暁晶の光の残留と、虚の黒が混ざり合う不気味な姿だ。核の中央には巨大な鱗片が刺さり、その鱗片はヴェルドの一部であると思わせる構造をしている。

 その時、空間が震え、ヴェルドが全身を現した。彼の姿は人々が夢想する「竜」とは異なる。怨嗟と孤独の記憶が彼の鱗に焼き付けられ、ところどころに人の言葉や名が刺さる。ヴェルドは自らの過去を語り始めた。

「かつて我は守り手の一つであった。人と共に世界を織る者。だが人は変わった。忘却を選び、我を遠ざけた。孤独が骨まで染みたとき、我はその穴を満たす方法を考えた。忘却そのものを食らえば、彼らは苦しみから解放されると信じた」

 語りの端々に、ヴェルドの悲哀が滲む。それは完全な悪意ではなく、歪んだ救済の論理だった。旅団はそれを聞きながら、ヴェルドをただ斬り伏せるだけでは解決しないことを悟る。核の回復は、ヴェルドの孤独と忘却に対する問い直しを含むのだ。

 カイは静かに立ち上がる。「あなたは守りだった。今も、心の奥底には守りの意思が残っている」――カイの言葉には非難がない。光は掌の底で穏やかに震える。「忘れることは苦しみを和らげるかもしれない。でも同時に、名前も、縁も奪う。あなたの元に戻ってきたのは、忘却を求める人々の影が深まったからだ。私たちは、それを取り戻すために来た」

 ヴェルドは一瞬、瞳を細めた。それは怒りではなく、驚きと戸惑いに似た感情だった。だが続いて、その身体が震え、核心に刺さった鱗がきしむ。彼は力を込めて虚の波を放ち、戦いは最終局面へと突入する。

 肉弾戦、精神戦、そして忘却そのものをめぐる問答――戦いは多層的であった。ユイの詠唱が言葉の輪郭を織り、リナの祈りが人の記憶の端を繋ぎ、ガロの斧が鱗を割り、トウヤの糸がヴェルドの触手を縛る。カイは核に光を差し込み、壊れた結晶面の隙間へ光を送り込む。

 だが決定的だったのは、人々が自ら声を上げ、彼らの名前と選択を核へ届けたことだ。村々で再び名を唱えた者たち、リュクスの鏡楼で自分の嘘を破った者たち、オルドで夢を取り戻した者たち――その声の重なりが核へ到達すると、核はゆっくりと再構築を始めた。黒い瘴気が淡く薄れ、ひび割れた面が光を取り戻していく。

 ヴェルドは叫んだ。「我が孤独をお前らは癒すつもりか? 我は忘れることを与えたのだ。苦しみからの解放だ!」

 カイは答えた。「君が与えたのは“簡単な忘却”だった。代わりに人は尊厳を失った。僕たちが望むのは、忘れることではなく、選び直す機会だ。痛みも悲しみも含めて、君の守りと共に生きることだ」

 その言葉が届いた瞬間、核の光は閃き、ヴェルドの身体に一瞬だけ暖かい光が差した。彼の瞳に揺れが生まれ、鱗の深部で微かな記憶の残響が鳴った。それはかつて人と共に笑った日の一断片のようでもあった。だが虚は深く、完全な解放には至らない。最後の決断が必要だった。

 核の外縁で、リナは再び自分の記憶を差し出すことを選んだ。彼女は語るべき幾つかの記名を、自分の中からそっと外へ放ち、それを核へ捧げる。代償は重い――だがその行為が、ヴェルドの心のひびを埋める鍵となる。リナの声が静かに流れ、核は最後の欠けを埋めていった。

 すると、ヴェルドは大きく息を吐き、身体が震えた。彼は叫び、だがその声のトーンは変わっていた。怒りだけでなく、理解にも似た感情が混じる。

「我は……忘却は、救いにもなりうるが、孤独を育てる。お前たちの輪郭を、我は知らなかった。だが……今、少し分かる」

 そして、ヴェルドは核の一部をゆっくりと口に含んだ――だが喰らうのではなく、自らの鱗の向こうに押し込むようにして収めた。鱗の一片が溶け、黒は薄れ、ヴェルドの姿は少しずつ変化した。完全な和解ではない。だが彼はもはやただの“敵”ではなく、かつての守り手の残滓を宿した存在となった。

第十四章 核心への道 — 裏切りと和解(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  ヴェルドが撤退した後、旅団は傷だらけで座り込んだ。人々の名は戻りつつあり、祭壇の光は安定しているように見えた。だがユイが写本の頁をめくると、そこに微かな注記があることに気づく――「核の核心は、物理と記憶の『折り重なり』にある。単独の強さは無意味」とだけ記されていた。

 旅団は次の方針を協議する。核そのものへ入るには、各地で行った名付けや再生の“集合”がなければならない。ユイは言う。

「核へ入る前に、もっと多くの声を集める必要がある。暁晶は共同体の輪郭に依存している。ここで孤立した行動をとれば、逆に虚は付け入る」

 ガロはレオンのことを思い出し、怒りと悲しみに身をひるがえす。だが彼の中には希望の片鱗もある――もしレオンが空輪会の中で何か変わったのなら、対話の余地もあるかもしれない。旅団は情報と時間を分配し、再び各地へ声を届けることにした。

 その折、トウヤは夜中に街灯の陰でひとり、誰かと密談しているところを見られた。仲間が駆け寄ると、そこにいたのはトウヤの“旧知”――空輪会の一員で、かつて彼を庇護していた男だった。短い口論のあと、トウヤは仲間に事の次第を話した。彼が密談したのは、自分の過去の贖罪のためであり、旧知はまだ彼を完全には見捨てていなかったのだという。

 だがその晩、村の鐘が鳴る。見張りが急報を持って走って来た。北の峠で、空輪会の残党が動員をかけ、村々を襲っているという。トウヤは顔を蒼白にして駆け出した。旧知は「俺のやり方で行く」と言い残し、影へ消える。彼の行為は裏切りか――それとも本当の助力か。答えはすぐにはわからない。

 峠の戦いは激烈を極めた。空輪会の残党はかつての組織の教義を拡大解釈し、村人に“楽な忘却”を吹き込んで強制的に受け入れさせようとしていた。ガロと仲間は村を守るために斧と詩と光を交差させ、トウヤは糸で道を閉ざし、ユイは防御の詠唱を繰り返す。旧知はその最中、陣中で涙を流しながら矢を放ち、空輪会の指揮者を討った。彼は自らを犠牲にして村を守ったのだ。

 戦いが終わると、トウヤは膝に座り込み、糸を握りしめた。旧知は息を引き取り、トウヤの腕の中で言葉を残す。

「……悪い。俺は…お前のためにだけ、正しかったのかもな」

 トウヤは嗚咽した。仲間たちは黙って彼を抱いた。裏切りと贖罪はいつも紙一重だ。レオンのこと、旧知のこと、彼らは皆「選択」を翻弄された者たちだった。旅団はその夜、それぞれの胸の痛みを分かち合い、より深い結束を得る。

第十三章 門の開通 — 皆で紡ぐ名の列(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  森の竜の鱗を携え、旅団は暁晶の古道の最奥にあるという「核の門」へ向かった。地図に記された座標に着くと、そこには巨大な石の環が埋まっていた。環の中央には古の文字が並び、長年の風化でかろうじて輪郭が残っているだけだった。鱗を環の窪みに置くと、微かな振動が走り、石の目がかすかに光を取り戻す。

 だが門は完全には開かない。文字の欠けた部分、削り取られた名が多くを阻んでいた。ユイは写本を開き、詠唱を始める。だが必要なのは一人の声だけではない。リナの言葉を借りて、門の前で「名の列」を作ることになった。村々で行った名付けの小さな儀式を、今度は大きな輪として門に捧げるのだ。

 旅団は呼びかけを始めた。彼らが訪れた村、助けた者、名を取り戻した人々――それらに声を繋ぎ、連絡網を作り、門の前に人々の列ができた。子供が母の名を高らかに呼び、老人が昔の友の名を忘れず繰り返し、恋人たちが互いの名前を祝う。名前は短いが強い。輪郭を取り戻す行為は、かつて想像した以上に激しい力を持っていた。

 石環は一点ずつ石の隙間に光を取り戻し、やがて中央の凹みが震え、古い文字が光る。門の縁に刻まれた最後の字が現れると、門はゆっくりと開いた。そこには薄い霧のような空洞があり、向こう側に淡い光が漏れている――暁晶の核への通路だ。

 しかし歓喜も束の間、空洞の闇の中から遠く低い咆哮が響いた。虚竜ヴェルドは、その名を知られた瞬間、核への扉を阻もうと姿を現す。空洞の淵から垂れ下がる影がうねり、やがて巨大な胴体が露出する。鱗は深く黒ずみ、瞳は空虚でありながらも知恵を宿している。

「我が名を呼ぶ者が増える。興味深い。だが輪郭が戻るということは、同時に痛みも戻る」――ヴェルドの声は地鳴りのごとく響く。「選べる自由を与えるそのやり方は、或いは我が望んだ道とも近い。だがなるほど、面白い。見てみよう、人が自らを選び直す様を」

 ヴェルドは口を開き、空洞の中にある暁晶の核に触れようとした。だがその前に、リナが前へ出た。彼女は既にいくつもの代償を支払ってきた。今、自らの手のひらを差し出して祈る。

「私たちは忘れることを選ばない。痛みも含めて、私たちの輪郭だ。奪われることは許せない」

 叫びが群衆を裂き、名の列はさらに大きくなった。ユイは詠唱を重ね、カイは掌の黎光を全力で放った。光と言葉が同時に核へ走ると、空洞の中で小さな閃光が広がり、ヴェルドの胴体に亀裂が生じた。だがそれは一瞬の驚きに過ぎなかった。ヴェルドは更に巨大な力を見せ、空洞の風が暴風となって人々を押し戻す。

 戦いは肉体と精神の両面で続いた。ヴェルドの触手は群衆の心に疑念を植え付けようと囁く。だが名の列は揺らがない。人々は声を重ね、かつての記憶を互いに呼び戻し合う。その声が合わさると、暁晶の核は震え、閃光が増していった。

 最高潮で、ヴェルドは最後の猛攻を仕掛ける。彼は核に手を伸ばし、虚の洪流を門を通して世界へ放とうとした。しかしカイがその手に飛び込み、黎光の刃を突き立てる。光と虚の衝突は爆発的で、周囲の空気が裂ける。カイの体は衝撃に晒され、彼は倒れ込む。掌の光は強く輝き、核はその輝きに応える。

 だが同時にリナはある決断をした。彼女はこれ以上、仲間や人々が繰り返し代償を負わないよう、ある一節を捧げる覚悟をした。大声で祈り、古い歌の一節を完全に捧げると、彼女の中の一つの記憶が淡く消えた。彼女はその喪失に微笑みながらも、確かな静けさを得る。

「これで、私は背負える」と、彼女は囁いて倒れる。

 人々は叫び、カイはリナを抱き起こした。リナの眼には一片の空白が出来ていたが、その口元は安らかだった。ユイは急いで文献を調べ、リナに新しい記名を授ける儀を行った。村人たちもまた、互いに名を確認しながら、しばしの静寂を保った。

 疲弊の中、核はゆっくりと回復の兆しを見せる。ヴェルドの姿はひるみ、巨大な身体は一度後退した。だが彼はすぐに再び立ち上がり、呟くように言った。

「なるほど……君らは選ぶことを選んだ。次は……我が核の、真の核心へ来るがよい」

第十二章 古道の試練 ― 繋ぎ直す儀式(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  暁晶の古道を進むうち、旅団は小さな村々に出会った。どこもかしこも、空輪会の溜め込んだ“無意識の選択”の痕跡が残る。ある村では、親子の会話が途切れ途切れになり、別の村では家々の屋根に不自然な印が刻まれていた。ユイは写本を広げ、そこに書かれた「名付けの儀式」を念入りに読み上げる。

「名付けの儀式は、ただの形式ではない。名を共同で唱え、言葉にして繰り返すことで、その人の輪郭が共同体の中で再編される。その輪郭こそが、虚を近寄らせない壁になる」

 リナは村の長老と相談し、古い祭壇を復元する手伝いを始める。村人たちは最初は戸惑うが、やがて昔習った旋律や古い呼び名を口に出すようになる。ユイが古語を紡ぎ、ガロが昔話を語り、トウヤが軽妙な囃子を入れる。カイは中心で光を手放し、村人たちの手のひらを一つずつなぞるように光を走らせる。光は争わず、ただ輪郭をなぞることに集中した。

 すると驚くべきことに、記憶の欠片がぽつりぽつりと戻り始めた。小さな子供が母の古い歌を思い出し、老婆が昔の戦友の名をふっと口にする。村人たちの顔に、忘却の膜が剥がれるように少しずつ表情が戻った。

 この成功は小さな希望だった。ユイは写本にその成功の手順を詳細に書き留め、次の村へと旅団を導く。だが、道中、彼らの行く手にはより厳しい試練が立ちはだかる。ヴェルドの影はより強く、人々の心はより深く浸蝕されている。ある町では、名付け儀式の最中に巨大な影が襲い、儀式の輪が崩しかける。カイは必死に光で輪郭を守り、リナは自らの記憶を一節分差し出して結界を強化する。差し出した代償は小さく見えたが、リナの表情には確かな痛みが刻まれた。

 儀式が成功するたび、ユイの顔に疲労が滲む。彼女は新たな真理を見つけてしまった――名を取り戻す行為は、人々に「選ぶ力」を返すと同時に、過去の痛みや責任も戻す。多くの者は楽な方を選んできたのだから、その代価は時に重い。ユイは写本に小さく注を入れる。

「輪郭の再生は義務でもあり、選択そのものの再起だ。誰もがそれを背負う準備があるわけではない」

 旅団が古道の中腹でひとつの大きな選択を迫られる。先へ進めば、暁晶の核へ至る“門”があるという一帯だ。だが門の前には、かつて暁晶を守った竜の一族の末裔――朽ちかけた竜の守り手たちが、眠りの中で最後の儀式を続けていた。起こされれば、彼らは怒りを露わにする。起こさなければ、核への道は閉ざされたままだ。

 議論は長引いた。ガロは直接に進むべきだと言い、ユイは慎重論を述べ、リナは儀礼の道を唱える。トウヤは黙って糸を撚り、カイは短剣を抱えたまま黙想する。最後にカイが口を開いた。

「俺たちのやってきたことは、力で片づけるだけじゃなかった。失われたものを、誰かと共に取り戻すための道だ。だから、儀式で彼らを起こして、話をしよう。たとえ怒りが返ってきても、話をすることがまず必要だ」

 リナは目を閉じ、長い祈りを捧げる。やがて火が灯され、古い旋律が森に流れる。竜の守り手たちの瞼がゆっくりと開き、古びた嗄れ声で問いかける。

「誰が我を起こした。誰が名を呼ぶのか」

 ユイは震えながら写本を掲げ、暁晶の古詩を詠唱する。言葉はぶつ切れであるが、徐々に竜たちの瞳に光を取り戻させる。竜たちは一つ一つ、過去の盟いの名を語り、そこにある痛みと誇りを吐露した。会話は長く、激しかった。竜たちは忘却されたことへの怨嗟をぶつけ、旅団は謝罪と説明を重ねた。

 その対話の末、竜の一頭が重々しく首を下げた。彼は自身の鱗を一枚剥ぎ取り、旅団に手渡した。鱗には古い暁晶の欠片が埋まり、鱗自体が「再生」の符号を強める媒体だった。

「暁の盟いは破れたが、我らの鱗はまだ残る。我らは貴様ら人の選択を見たい。この鱗を持つ者に、核への門は開かれよう」――竜の声は深く、森を震わせた。

 だが同時に竜は告げる。再生のためには「集団の選択」が必要だと。単独の英雄譚ではなく、各地で行われる名付けと記憶の儀式が、暁晶の核を真に復元する鍵なのだと。旅団はこれを重く受け止める。彼らの旅は、もはや自分たちだけの戦いではなく、世界を巻き込む共同作業となる。

第十一章 暁晶の欠片 ― 真の姿(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  空輪会の本拠を抜け、旅団は地図に導かれ古い巡礼路を進む。ユイの写本では、その路は「暁晶の古道」と呼ばれていた。道の両脇には石碑が並び、そこにはかつて暁晶を守護した竜たちの名が刻まれている。だが多くの文字は削り取られ、輪郭だけが残っていた。消えかけた名のセリフは、人々の記憶さえ相対化していた。

 ユイは写本を開き、そこに描かれた図を追う。「暁晶は、かつて竜と人が守り合った遺産だ。竜は結晶の一部を鱗に宿し、守り手として生きていた。だが、ある時点で人は‘効率’と‘忘却’を求め、竜を遠ざけた。ヴェルドはその隙間に居座った存在だと書かれている」

 旅団が辿り着いたのは、深い森の淵に崩れかけた祠だった。祠の奥に、小さな水盤と古びた石像。像は竜を模しているが、顔の半分が欠け、片目は石の剥離で消えている。そこにかつて竜が祈りを受けた痕跡が残り、石板には一節の古詩が刻まれていた。

 カイは掌の光を祠に差し込み、その光で石板の隙間に残る文字をなぞった。すると、微かに震えるように石像の一部が浮き上がり、そこに刻まれた古い映像が光の中に蘇る。映像は過去の記憶のようで、そこには一人の竜が人々に寄り添い、季節の巡りを助ける様があった。竜はやさしく、時に厳しく人の営みを守っている。

 だが映像の後半、竜の表情が歪む。人々が竜を遠ざけ、竜の守りを忘れた日々。竜の瞳に落ちるのは、孤独という名の亀裂である。その亀裂がやがて「虚」を生み、竜は自らの核(コア)を守るため、或いは恨みのために変質していった——少なくとも、写本はそう暗示していた。

 ユイは息を呑む。「ヴェルドは完全な悪ではない。むしろ、忘れられた竜の“歪んだ帰結”かもしれない。守られなかった者の代償が、虚として世界に牙を向けているのでは」

 リナは祈りを捧げ、石像の欠けた目に手を当てる。掌が触れた瞬間、彼女の額にひとつの記憶が浮かんだ――幼い頃、祖母が語った竜の唄。その唄は人と竜の盟いを祝うものであり、世界の輪郭を織る言葉だった。リナは静かに歌を口ずさむと、その小さな旋律が森に拡がり、葉の一枚がそっと震えた。

 その夜、旅団は焚き火を囲み、竜のことを話し合った。ヴェルドが怨嗟から生まれたのか、あるいは人の忘却が創り出した存在なのか。どちらにせよ、彼らが対峙するのは「ただ倒すべき敵」ではなく、「鈍った世界の痛み」の具現だった。

 ユイは新たな仮説を口にする。「暁晶の核を再結合するだけでは足りない。核は物理的な結合と同時に“輪郭の再生”を必要とする。つまり人々の名、記憶、選択が回復されることが条件だ。もし我々が欠片をただ清めるだけなら、暫定的な回復にしかならない」

 カイは短剣を膝に置き、焚き火の炎に目を落とす。「じゃあ、どうする? 人々に忘却の痛みを思い出させるのか?」

 リナは穏やかに答えた。「思い出させるのではなく、再び『選ぶ機会』を作るのです。人が自らの輪郭を取り戻すための場を。名を与える儀式、記憶を刻む祭。暁晶の核は、そのとき本当に回復するはずです」

 旅団の目の前に、これまでの戦いの意味が新たな層を持って重くのしかかる。物理的な戦闘だけでなく、文化的で精神的な回復が必要なのだ。ヴェルドが虚を広げるほど、その穴は深く、回復のための努力は大きくなる。

 翌朝、カイは父の短剣を撫で、小さく誓った。「俺たちは、ただの武器でない何かを取り戻す。人の名前と選択を守るんだ」

第十章 空輪会本拠 ― 潜伏と真実の裂け目(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  空輪会の本拠は、かつて交易で栄えた城塞都市の地下深くに潜んでいた。表向きは慈善団体や学術サークルを装い、薄い善意と言葉の饗宴で市民を引き込む。だがその根は深く、町の記録、名簿、そして人々の「選択」の履歴までを書き換えていた。

 ユイが写し取った地図は複雑だった。古い下水道網に紛れた小部屋、倉庫、偽装された礼拝所――その集合体が空輪会の「網」だ。旅団は昼間は別々に行動し、夜に合流して情報を摂取する作戦を取った。ガロは直截に力で概略を探り、ユイは文献と書類の痕跡を追い、リナは人の心の反応を見極め、トウヤは路地の噂と息をつなぎ、カイは夜明けとともに黎光の感覚で欠片の兆候を探す。

 ある夜、トウヤが酒場の小さな台に上がって口上を始めた。彼の歌は軽やかだが、細工が施されている。空輪会の連絡役を気取った者が耳を立てると、すぐに注意を引かれ、仲間たちの仕込みが作動する。背後の壁から隠し扉が開き、暗い階段が現れる。それは空輪会の地下への入り口であり、トウヤの合図で仲間は一斉に動き出した。

 地下は冷たく、蝋燭の光が薄く揺れる。壁には無数の記録が貼られ、名前と日付が改竄されている。そこかしこに「選択の推薦」という名の署名があり、押印には見覚えのある紋章――あのヴェルドの変形した印があった。ユイがそれを指でなぞると、彼女の指先にかすかな震えが走った。

「これ……ただの組織じゃない。誰かが意図的に人の“選択”を再配列している」――ユイの声はひそやかだが確信に満ちていた。「そしてその中心にヴェルドに関する“儀式”の痕跡がある」

 廊下の突き当たりに大きな部屋があり、そこには空輪会の幹部たちが集っていた。中央の祭壇には、小さな暁晶の模型と、竜の鱗の断片らしきものが置かれている。その上で、ある男が高らかに話をしていた。彼は穏やかな笑みを浮かべ、言葉を選びながら人々の心を撫でるように語っている。だが目は冷たく、まるで何かを計算している。

「我々は人々に選びを与えているのではない。選びを解放しているのだ。苦しみからの解放。それが、真の慈悲だ」――男の言葉に拍手が湧く。

 ガロは斧を構えようとしたが、リナが掴んだ。彼女の目は冷静だ。「突入はまずい。今ここで斬り合えば、人々に矛盾の種を撒く。彼らは“救済”の名の下にもっと深く浸透する」

 そこでカイが前に出た。彼は静かに光を掌に集め、その温度で空気の輪郭を確かめる。光は祭壇の模型に反応し、微かに震えた。模型の中に封じられた痕跡は、生きているかのように答えを返す。カイは口を開く。

「あなたたちは‘選択’を奪っている。それを与えるのは神の慈悲でも、社会の配慮でもない。人が自ら選ぶことを止めさせるのは、自由の死だ」

 男は微笑みを崩さず、ゆっくりと立ち上がる。やがて暴露が始まる。男の名は“修辞者”マルコス。かつては学者で、言語と政治の間で揺れ動いた者だという。彼はヴェルドの存在を「終局的な合理性」として解釈し、人々に負担を減らすための“忘却”を施すことこそが救済であると主張していた。

「虚は恐ろしいものではない。虚は空白だ。空白は可能性を孕む。選択という縛りは苦痛を生む。われわれは苦痛を取り除くために、輪郭を取り外す」

 その理念の論理性に、幹部たちは拍手を重ねる。だが、彼らが忘れているのは――輪郭を失うことが、同時に“尊厳”や“記憶”を奪うことだとリナが静かに言うと、マルコスの笑みに僅かな陰りが差した。

 騒ぎはすぐに始まった。空輪会の護衛が飛び出し、地下の石室は一瞬にして戦場になった。カイの光が祭壇の模型に走ると、その模型からかすかな叫びが漏れ出した。模型は砕け、盛り上がっていた紋章の鱗片がひとつ床に跳ねた。床を叩いた衝撃で地下の古い構造が軋み、長年押し込められていた空気が噴き出した。

 そのとき、マルコスの背後から深い咆哮が響いた。床のひび割れから、黒い影がゆっくりと立ち上がる。空輪会の幹部の顔が一瞬にして青ざめる。そこに姿を見せたのは小さな竜――だが人のような目を持ち、鱗の間に古い暁晶の欠片が埋まっている。ヴェルドの眷属か、それともヴェルド自身の一端か。マルコスは震える声で呟いた。

「我が理が、ついに……」

 竜は口を開き、静かに言った。言葉は人の言語に似ているが、そこに含まれるのは空虚と懐疑だけだった。

「我は“穴”を満たす者。人は自らの縁を嫌い、我を求める。そこに芽生えるのは安寧か、あるいは滅びか。どちらでもよい」

 その瞬間、カイは理解した――空輪会はヴェルドの“前哨”であり、マルコスのような理論家がヴェルドの思想を人々に説き、実態としての虚が着実に拡がっていたのだ。戦いは熾烈を極めたが、最後にマルコスは逃亡、空輪会の根は一部つぶれたものの、空輪会の理念は消えず、どこへでも広がれる種子となってしまった。

 地下から這い出ると、谷間の町は静かに見えた。だがトウヤは黙って遠くを見つめ、糸をそっと握り締めた。彼の指先には、かつて誰かが与えた「選択の記録」が焼きついている。自分の過去は消せない――だが今、彼は己の糸で新たな道を結うと決めた。

第九章 オルドの眠り — 夢を食う巨蟲(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  北へ向かう道中、旅団は鉱石の匂いと湿った土の香りが混じる山間の鉱都オルドへ入った。オルドは地の守環――土環を抱くところで、地下には無数の坑道と巨大な機械が眠っている。戦国のように働く鍛冶屋、黒ずくめの鉱夫、石を扱う職人たちの声が町を満たしていたが、眠気の波が街に漂っている。人々は眉間に皺を寄せ、眠ったように歩きながら何かを忘れたような表情をしている。

「ここは、夢を司るとも言われる土地」――リナの声は低い。「土環が侵されると、夢が現実と混ざり、人々の未来/過去の境が曖昧になる。そこに“夢を喰う者”が現れれば、眠りが食われ、希望が奪われる」

 坑道の入口で、彼らは奇妙な光景を目にする。大きな巣穴の前に、眠る人々が寄り合っている。彼らの顔は安らかだが、手には鋸屑のような欠片が握られている。坑道の奥から、微かな振動とともに巨大な音が伝わってきた。地鳴りのような息。やがて、闇の中から巨大な節足の影が滑り出す。全身が土で覆われ、胴には古い夢の断片――子供の玩具、古い結婚指輪、忘れられた歌の断片――が貼りついている。

 夢を食う巨蟲――その名にふさわしい怪物は、周囲の眠りを透かして生きている。触手の先が夢の断片に触れると、その断片は黒く溶け、持ち主の目が暗くなった。眠りはただの休息ではなく、記憶や希望が集まる場だった。喰われた夢は戻らない。

 坑道の中で、ガロは立ち尽くした。かつて失った仲間たちの夢や笑顔が、蟲の外殻に埋まっているのを見て、胸の中の傷が疼く。彼は一歩前に出て、斧を高く掲げた。

「お前は、夢を喰らうか。なら、俺が差し出すのは記憶だ。お前はそれを返せるか?」

 戦いは、肉体と心の両面での攻防になった。巨蟲の外殻は固く、普通の斬撃はほとんど効かない。ユイが詠唱で地盤を揺らし、坑道の支柱を崩して蟲の動きを鈍らせる。トウヤは糸で触手を縛り上げ、リナは眠る人々の夢の糸を結び直して守る。カイは掌の光を蟲の胴に向けるが、光は蟲の殻に吸い込まれてしまう。

 そこでユイがふと気づいた。蟲が貼り付けている断片は、ただの夢の残滓ではない――「名」を忘れた人々が捨ててしまった「輪郭」の欠片だ。ユイは古い詠唱を紡ぎ、坑道の中に残る“名”を一つずつ呼び戻す。すると、蟲が抱く断片の一つが光を取り戻して微かに震えた。

「夢は名と繋がっている。名がある限り、夢は返せる」――ユイの声には確信が宿っている。

 ガロは一つの断片を引き剥がし、叫んだ。「戻れ! お前らの笑顔を、返せ!」

 その叫びはただの怒声ではなく、かつての仲間への呼びかけでもあった。巨蟲は反応し、激しい振動を伴って動いた。すると、蟲の節の隙間から小さな光が溢れ、それはやがて一つの形――小さな人形のような姿へ戻り、近くの眠る女性の膝元に転がり落ちた。女性は目を開け、泣きながらそれを抱きしめた。

 しかし勝利は即効的ではない。蟲は深い傷を負いながらも、最後に一度だけ低い声を呟いたように聞こえた。

「――我は、飢えを止められぬ。虚の名は深い。暁晶の欠片が深く汚れていると、夢は一度で戻らぬ」

 それを聞いた瞬間、ユイの顔が青ざめる。彼女は写本から抜き出したメモを取り出し、そこに書かれた古い記述を読み上げた。

「暁晶の核は、単に『壊れる』のではなく、心の“穴”を反復して拡げる性質がある。欠片が深く汚されるほど、戻すための“代償”は増す。リナ、あなたに課された代償は始まりに過ぎない」

 リナは黙って頷いた。これまでに失われた記憶は小さなものだったが、これから先に待つ試練はより大きいかもしれない。ガロは蟲を見据え、拳を握る。彼の心に新たな決意が生まれていた――仲間の失ったものを、必ず取り戻すと。

 坑道を出ると、空は鉛色に曇っていた。人々の眠りは戻りつつあるが、町には静かな哀しみが漂う。ユイは新たな文献を写し取り、暁晶の核に近づく手引きを探す。トウヤは誰にも見せないように、糸の房を撫でている。それは彼にとって、守るべきものの象徴になっていった。

 だが旅団の前には、まだ多くの塔が残っている。四つの欠片のうち三つは清められつつあるが、汚れは深く、ヴェルドの狙いはますます明確だった。虚竜ヴェルドは単なる怪物ではない。彼の“虚”は、人々の選択、名、記憶――そうした輪郭を糧とし、世界をゆっくりとほどこうとしている。

 旅団は再び歩き出す。目指すは、暁晶の核へ通ずるという古の道。その道は人々の忘却と選択を試し、最後に“選び直す”決断を突きつけるだろう。カイは父の短剣を握り直し、リナは静かに祈りを捧げ、ユイは地図を折りたたむ。ガロは斧を肩に担ぎ、トウヤは糸を腕に巻いた。

 虚竜ヴェルドの影は、暗い雲のように彼らの上空を移動している。だが旅団の胸には、小さな光が灯っていた。それは消えそうで消えない、何度でも繋ぎ直せる光だった。

第八章 空輪会の影 — トウヤの糸(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  早朝、薄い霧が谷を這うころ、一行は小さな港町の裏通りに到着した。ここは空輪会の一派が潜伏しているという情報筋が示した場所だ。ユイが紙片に示した複数の屋号のうち、傷んだ看板を下げた古雑貨屋が最も怪しかった。店主は客を装って入り口に立っていた男と短い会話を交わすだけで、目だけで何かを確かめていた。

「空輪会は、組織というより“思想の伝染”だ。支部は小さな店先、遊技場、酒場――人の“選択”をゆっくり変える場所に根を張る」――ユイの言葉は冷静だが重い。

 トウヤは路地に一歩入ると、ふと顔を曇らせた。彼の指先はいつものように糸を弄り、短い管笛を口にしては鳴らさずにしまう。焚き火の夜、彼は仲間に少しだけ過去を語った。幼い頃に家族を空輪会の宣伝で失ったこと、裏路地で生き延びるために“情報”を売り、その代わりに糸と短剣で身を守る術を覚えたこと。だがその“売り”は時に誰かを傷つけ、彼の胸に小さな亀裂を残していた。

 雑貨屋の裏口から忍び込むのはガロの斧ひと振りで容易だったが、そこにあったのは単なる品物の山ではなく、人々の記憶や小さな誓約署名の束、そして空輪会の印刷物だった。押し入れの奥、壁の隙間に隠された箱の中には、古い軍の文書や、ガロの故郷の村を示す名簿が混じっていた。名簿には、知られざる「推薦者」の名が幾つか刻まれている。読み進めるうち、トウヤの顔が急に青ざめた。

「これ……俺の名前が載ってる」

 トウヤの指が震える。過去、非公式に情報を売った相手の中に空輪会の手先がおり、彼の身元が“保護”という形で組織に結び付けられた痕跡だった。トウヤ自身は裏切ったつもりはない。しかし名簿は彼を“連絡役”として記している。彼の過去の小さな選択が、誰かの手で「方便」に変えられていたのだ。

 その時、背後から扉が閉まる音。気配は既に包囲に変わっていた。空輪会の者たちが裏通りを囲み、隠し紋を示して扉を叩く。彼らは慈善風の衣装をまとっているが、目は冷たい。声は砂を噛んだように低い。

「トウヤ。出て来い。お前の“便り”は有益だった」

 トウヤは一瞬、仲間に目を走らせた。ガロは斧を構え、ユイは詠唱の準備、リナは守りの印を結ぶ。だがトウヤは手を上げて静かに言った。

「待ってほしい。俺が出る。話をさせてくれ」

 彼は戸を開けると、裏路地に姿を見せた。空輪会の男たちは一斉に短剣を抜いたが、トウヤは冷静だった。彼は自分の糸で男たちの足を絡め、巧みに動きを封じる。だが動きの中で、彼の面に一瞬だけ躊躇が浮かんだ。

「なぜお前が裏切りの名簿に?」――ガロの問いに、トウヤは答えた。

「昔、俺は情報で飯を食ってた。だが誰かに売った“嘘の名”が、ある家族を崩した。あの日から、人を操る言葉を吐く奴が憎い。だけど逃げてきただけの俺が、今ここで誰かを裁けるかって言えば、分からない」

 空輪会の首領が歩み出た。黒い装飾の布を翻すその男は、ゆっくりと微笑みを浮かべた。

「トウヤ。お前は便利だ。だが今日、お前には選択を提供しよう。空輪会に戻るか、死ぬかだ。選べ」

 その言葉に、トウヤの目が光った。彼は糸を引き、組み伏せた男を一掃するように仕掛ける。だがその瞬間、屋根の上から矢が飛び、闘いが激化する。屋根の影に隠れていたのは、かつてトウヤが世話になった“庇護者”と名乗る人物――だが彼もまた空輪会の手先であった。混乱の中、トウヤは叫びながら糸を操り、仲間のために道を作る。

 結果的に、裏通りの戦いは旅団の勝利に終わる。だが勝利の代償は重かった。トウヤは自分の過去の“帳簿”を燃やすように破り捨てたが、心の奥には依然として“誰かを傷つけた”という影が残る。彼は夜、焚き火の端で静かに糸を撚りながら言った。

「俺は、これまでにした選択を全部赦すつもりはない。だが、今はお前たちといる。これが俺の“選択”だ」

 その言葉を聞いた仲間たちは、言葉少なに頷いた。ユイは写本にあった空輪会の網羅図を写し取り、次の手がかりを探す。ガロはレオンの名簿に繋がる足跡を追って北へ向かうことを決めた。トウヤの糸は、今やただの武器ではなく、彼の贖罪の象徴になっていった。

第七章 ガロの夜 — 失われた盾と旧友の裏切り(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

 リュクスを出てから日が経つと、旅の疲労が人々に重くのしかかってきた。夜の焚き火の周りで、各々が黙々と自分の思いを噛みしめる。炎が跳ねるたびにガロは視線を遠くに飛ばした。いつもは無造作に置かれた斧を磨きながらも、その手は少しだけ硬く震えていた。

 ある夜、トウヤが酒の蓋を抜くと、ぽつりと尋ねた。「ガロ、昔の話、聞かせてくれよ。なんで王国を辞めたんだ?」

 ガロは斧を置き、煙草の火をじっと見つめた。彼の顔に深い影が落ちる。少し間を開けてから、低く語り始めた。

「昔、俺には相棒がいた。名はレオン。俺たちは王国の傭兵隊にいた。ある任務で、村を守るために城門を死守しろって命令が下った。だがそのとき、俺たちは命令の意味を疑った。援軍は来ない——それは分かってた。だが城は守るべきだ。俺は踏み留まった。レオンは別の選択をした。撤退を選んだんだ」

 炎が揺れる。ガロの声には苛立ちとも哀しみともつかぬ色が混じる。

「結局、俺は残った。城は落ち、多くの仲間が死んだ。レオンは逃げ延びた。後日、彼は軍の高位に取り立てられたらしい。俺は恨んだ。だがそれだけじゃねえ。ある日、俺が戻った村は静かに壊れていた。俺が守ったはずの人々は別の理屈で散っていった。俺は自分の選択の意味を疑った。守るって何だ? 失うこととどう折り合いをつける?」

 ガロは拳を握り締めた。「それから、俺は斧を置くかどうか迷った。だが、誰かが守らねえと、ただ喰われちまう。俺はそれで、ここにいる」

 夜が深くなると、焚き火の向こうでガロはそっと立ち上がって街灯の影へ消えていった。誰も追わない。彼は一人、過去の残影を辿るために歩くつもりだった。

 翌朝、彼らは小さな集落で空輪会の旗を見つけた。旗の側には、奇妙に整った墓地があり、墓石の一つに古い軍服のボタンが埋まっているのが見えた。ガロの顔色が変わる。

「そいつは……」

 ガロは一歩一歩、墓石へ近づいた。そこに刻まれた名は――レオン。ガロの心臓が早鐘のように鳴る。だが刻まれた没年月日は、彼が記憶するものとは違った。誰かがレオンを“英雄”として祭っている。それだけではない。墓石の周りに撒かれた花の中には、空輪会の紋章を象った黒い布切れが混じっていた。

 ガロは顔を歪め、拳を握りしめた。周囲の村人は目を伏せ、話題を逸らそうとする。ガロはその夜、独りで墓前に座り込んだ。月の下で、彼はレオンへ語りかけるように呟いた。

「お前はどんな選択をして、誰を救った? 誰を捨てた?」

 その時、背後で砂利が擦れる音がした。振り向くと、薄暗がりに人影がある。影は一歩出て、ガロの顔を見せた。そこに立っていたのは――レオンだった。だが目は違った。冷え切って、虚の色が乗っていた。

「お前が来るのを待っていたよ、ガロ」――レオンの声はかつての温度をなくしている。「あの夜、お前は残った。だが“残る”ということは、時に恨みを生む。俺は選んだ。自分を生かす道を。だからここにいる。だがお前は今、なにをしている? 人の思い出を繋ぐだけで、何を変えられるというのだ?」

 レオンの言葉は苛烈だった。ガロはかつての相棒の目を見て、震える声で言った。

「俺は……俺は守るって決めた。ただそれだけだ」

 レオンは静かに笑った。「守るというのは、強さだけじゃない。選択だ。人は自分の都合で他人を守ろうとする。世界は弱さを忘れない。見ろ、空輪会は“楽”を与える。人々は自分で選ばなくて済む。ヴェルドはそれを促す。俺は、その流れに乗った。そしてお前は、まだそこから離れられない」

 ガロの胸に、古い痛みと新しい怒りが同時に押し寄せる。彼は斧を抜き、かつての相棒に向かって斬りかかった。だがレオンは身をかわし、攻撃を受け流す。動きは熟練のものだった。闘いの中、レオンの動きにはためらいがなく、まるで任務を遂行する兵士のようだった。ガロは次第に、相棒がただ“逃げた”のではなく、別の道を辿って“選んだ”のだと気づく。

 斧と剣が交錯し、月光が刃を鈍く反射する。激しい一撃の後、レオンはつぶやいた。

「俺たちの選択は違うだけだ。あの夜、俺は生き残り、そして……力ある場所に身を寄せた。空輪会は、虚を利用して人を操る。だが人は、選ぶのをやめる。そいつは楽だ。誰もが楽を望む」

 ガロは怒りで言葉を紡ぐ。「それでも、お前はあの夜のことを忘れたのか? 仲間の顔、約束、笑い声。全部消えちまったのか?」

 レオンの目に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。だがそれは薄く、すぐに消えた。「忘れたわけじゃない。だが忘却は力だ。忘れることで人は前に進める。お前のやり方は、過去に縛られる。だが俺は前を見た。だからここにいる」

 闘いは終わらなかった。だがレオンは最後にガロに言い残した。

「お前は俺を許す必要はない。だがお前が守りたいものを守れ。俺はもう、そっち側にはいない」

 影は再び月に溶ける。ガロは斧を地に落とし、膝をついた。胸の中の怒りが、重苦しい喪失に変わる。彼は自分が守った「何か」が果たして正しかったのかを、再び問うた。レオンは空輪会の傘下にあるのか、それともヴェルド自身に取り込まれているのか。答えは霧の中だ。

 朝になり、旅団はガロの顔に変化を見た。彼は以前よりも静かで、しかし決意が深まっていた。かつての相棒を追うことは、ガロにとって戦いの理由を個人的なものへと変えた。彼は仲間たちに告げる。

「俺はレオンの行方を追う。真実を知るために。もし奴がここに留まるなら、俺がそれを断つ」

 仲間たちは無言で頷いた。ガロの復讐かもしれないが、彼らは理解していた――個人的な傷が、しばしば世界の裂け目を塞ぐ力になることを。トウヤは小さく笑ったが、その目は冷たく光った。

「じゃ、俺も一緒に行くよ。昔の仲間の裏切り話は、酒のいい肴になる」

 ユイは紙片に何かを書き込み、ポケットにしまった。「情報網を辿れば、空輪会の痕跡は出るはずだ。リュクスの鏡楼で見た印と一致する場所がある」

 リナはガロの肩に手を置き、静かに言った。「過去と向き合うことは痛みを伴う。でも、忘却を与える者たちに負けないで。私たちはあなたの傍にいる」

 こうして一行は、新たな目的を抱いて出発した。ガロの個人的な戦いは、やがて空輪会、そして虚竜ヴェルドの計画全体に繋がっていくことになる。レオンという旧友の背中に何が宿っているのか――それが今後の戦局を左右する鍵の一つであることを、誰もまだ知らなかった。

第六章 沈む都リュクス — 水鏡の嘘(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  道は海へと戻る。砂の国を抜け、旅団は波音の中に新たな風景を見出した。リュクス――その名は水の都を意味し、湾を囲むように層状の街が築かれている。水面に反射する建物は、まるで二重の都市を抱えているかのようだ。だが今、リュクスの水面は揺らぎ、鏡像が歪んでいる。人々の顔が水面に映ると、そこにほんのわずかな違和感が生じる――笑顔が嘘に見え、親しげな仕草が冷たく裏返る。

 港に降りると、漁師たちが互いに背を向けている。客引きは店の前で声をかけるが、誰も振り向かない。店主の目は虚ろで、言葉を聞いても反応しない。リナは小さく息を吐いた。

「水鏡――ここでは“真実の反映”が歪められる。虚は真実を捻じ曲げ、人を自らの疑念へと誘う。疑念はやがて選択の放棄になる」

 ユイは港の倉庫で見つけた古い地図を広げ、指である地点を指した。「ここに‘鏡楼(きょうろう)’とある。水面を鏡のようにする古い儀礼の場だ。そこが汚染されていると、映る真実が嘘に変わる。欠片の影響範囲が広い」

 リュクスの中心、鏡楼へ向かう道は迷路だった。水にかかる石橋の先々に、人の影がちらつく。ある石畳の上では、二人の商人が口論をしていたが、その内容は曖昧だ。カイが割って入り、両者を引き離すと、二人は一瞬戸惑い、顔から表情が消えた。言葉は途切れ、互いの名前が宙に浮く。小さな“穴”が出来ているのだ。

 鏡楼の扉は重く閉ざされていた。扉に付けられた金具には、空輪会の印がほのかに彫られている。扉を押し開けると、室内は光と水と影の混ざり合い。中央に浮かぶ大きな水盤が、鏡のように都市全体を映している。その水面が揺れるたび、遠景の人々の表情が歪む。

 やがて水面が震え、そこから一つの“像”が立ち上がった。鏡像は本物の模倣だが、端々が鋭く誇張されている。友人の像は冷たく嘲り、恋人の像は裏切りを示唆する視線を投げる。見る者の心の弱点をつつき、疑念を育てる。鏡像は言葉を発し、囁きが耳に残る。

「お前は裏切られている」
「本当にこれを守りたいのか?」
「選ぶなら楽な方だ」

 ユイは詠唱を始めるが、言葉が水面に反転して戻ってくる。反転した言葉は語感を変え、人の心に刺さる。リナが結界を張ろうとするが、結界の輪郭さえ揺らぐ。水鏡は“言葉の意味”そのものを歪めるのだ。

 混乱が広がる。親子は互いに顔を見合わせ、目的のない怒りで叫び始める。ガロは斧を掲げて振り払い、トウヤは糸で鏡像の手を捕らえようとするが、像は容易に形を変える。カイは声を上げた。

「お前たち、聞け! ここに映るのは、君たちの全部じゃない! それぞれの欠片が、真実を細断しているだけだ!」

 だがその言葉さえ、鏡は無慈悲に弄ぶ。誰かの耳に届けば届くほど、言葉のエッジが削られ、誤解が生じる。ユイは必死に古語の名付け詩を紡ぐ。彼女は鏡に向かって、ある“名”を唱え続けた。それは、過去に鏡楼で詠まれた“守りの名”だった。名を復唱するごとに、水面に浮かぶ像の輪郭が少しずつ戻ってくる。

 その時、鏡楼の中央、水盤の中からひときわ大きな影が立ち上がった。水と影でできた竜の形――だがその姿はただの獣ではない。頭部は甲羅のように分節し、胸には古い紋章が半ば溶けたように浮かんでいる。カイはその胸に、かつて見たような紋章の残像を認めた――暁晶の文様と、そして薄れていく“竜の印”。

 竜は水鏡を引き裂くように咆哮し、その声は疑念を言葉に変えて放った。

「真実は脆い。人は自らの輪郭を放す。私はそれを喰らう──ヴェルドの名を冠した者よ、我は虚竜の一端だ」

 戦いは、ここでは“声”の奪い合いになった。ユイは声を高め、古名を復唱する。リナは祈りで人々の心の線を結び直す。カイは掌の光を水面に走らせ、鏡像の輪郭を“なぞる”。不思議なことに、光が輪郭を追うたびに像の歪みが解け、鏡面の下に眠る本来の情景が露出する。

 その隙に、トウヤは鏡像の“背”へ飛びついた。糸を器用に使い、水の竜の尾を絡め取る。だがその瞬間、トウヤの眼が一瞬だけ濁った。彼の微笑は歪み、過去の一場面が彼の瞳に映る――幼い頃、誰かに裏切られたかのような痛みの記憶。トウヤは短く呻いたが、裂けた思考を振り払って糸を絞った。

 ついにユイが最後の名を唱え終えると、水竜は水面に叩きつけられ、波紋が広がった。鏡楼の水面は静まり返り、歪んだ像は消えた。だが勝利は安堵とは違う。リュクスの人々の多くが、自分たちの心に生じた“穴”を感じていた。誰かの笑顔がどこか遠くにあると感じ、互いに少しだけ距離を置く。水鏡は癒えても、裂け目は完全には塞がらない。

 カイが港で一人の老人と話したとき、老人は昔の言葉を少し忘れてしまっていた。幼い頃の恋人の名前を、ふと思い出せない。カイは黙って老人の手を取った。言葉が戻らなくとも、手の温かさは確かだ。リナは静かに呟く。

「虚は一度入ると、痕跡を残す。でも、繋ぎ直すことはできる。時間はかかるが、人は名前を取り戻せる」

 トウヤは海を見つめ、口をつぐむ。彼の胸の奥に、また別の影が蠢いている気配がある。空輪会の足取りはリュクスでも見られ、誰かが動いている。ユイは写本に新たな記録を刻み、五人の旅団は次の目的地へと舟を進めた。水鏡は割れた形を癒したが、ヴェルドの影はますます明瞭に、彼らの航路を覆っている。

第五章 砂の国セムナ — 灼熱の試練(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  セムナへ向かう道は、アークの緑から次第に砂へと変わった。風は熱く、空は白く光る。峡谷は苛烈な日差しに削られ、遠くで地響きがする度に砂塵が巻き上がる。ここには風の繊細さではなく、時間と熱が支配する。

 塔の入口に立つと、そこは巨大な砂時計のように設計されていた。砂は止まっているのではなく、逆行したり溜まったりしている。守環の“炎環”は、時間と熱の均衡を司るはずだが、今は歪み、時の流れが局所的に乱れていた。蒼白の光が砂漠の表面でひび割れて、蜃気楼のような幻が時折見える。

 入口で彼らを迎えたのは砂塵に焼けた商人と、塔の守りを手伝う小さな部隊だ。だがその目はどこか虚ろで、底にあるはずの希望が薄れている。セムナの人々は、熱と空間の狂いの前にうなだれ、選択肢を失いかけていた。

「ここで時間が狂うと、人はいつまでも過去の痛みに囚われるかもしれない」――リナが小さく言った。

 塔の内部は、歩くたびに過ぎ去った時間の断片が一瞬現れる。床に映る影が先の戦いを再演し、振り返ると自分の過去の姿がそこにいる。カイは父と並んで小船を直す昔の自分と目が合い、胸が締め付けられる。ガロは旧友と笑いあう場面がふいに現れ、刃の冷たさが甦る。過去の好機が目の前に提示されるたびに、どう対処するかで未来が変わるようだった。

 塔の核心で待ち受けていたのは、炎を纏う巨像――炎の欠片が“憤怒”の形をとった獣だった。巨像は過去の憤りや恨みを集めて成長し、噴き上がる火が塔内の時間を焦がしている。戦いは苛烈を極めた。炎がユイの詠唱を妨げ、時空の歪みが戦闘のリズムを狂わせる。

 その最中、リナが前に出て叫んだ。

「カイ、あなたはただ憤りを浄化するだけじゃない! 過去の“形”を取り戻してあげて!」

 カイは掌の光を強く握りしめ、目を閉じた。光は熱を帯び、彼に古い記憶のイメージを送る。それは憤怒に焼かれた人々の顔、癒されぬ傷跡、失われた約束だった。カイは一つずつ、その輪郭を光でなぞる。すると炎の巨像は叫び、短い断末魔と共に爆散する。砂時計の砂の流れが整い、時の逆巻きが止まる。

 だがその直後、リナの顔にひどく疲れた影が落ちる。熱は彼女に別の代償を要求していた。守護の術は彼女が自らの記憶を糧にすることで成り立っており、祈りの一つ一つが彼女の記憶の一片を削っていたのだ。塔を救った代わりに、リナは幼い頃の記憶のひとつを失った。

「なにを失ったの?」――カイの声は震えた。

「小さな花の名前。……でも、大丈夫。私はまだここにいる」リナは微笑んだが、その瞳に宿る薄い影は消えない。

 セムナでの勝利は重かった。仲間たちは一人ずつ自分たちの中の欠片を抱え、外に出た。ユイはノートに細かく観察を記し、ガロは黙って大斧の柄を拭く。トウヤはいつもの軽口を取り戻そうとするが、その声は少しだけ震えを帯びていた。

 外に出ると、砂丘の向こうに小さな影が翳っているのが見えた。それは大きく、竜の躯体を思わせる。だがヴェルドの全貌ではない。遠くから聞こえたのは、あの冷たい声ではなく、低い咆哮と共に、かすかな囁きだった。

「世界はほぐれていく。だが、そこで見えるのは“何か”だ。輪郭を失いかけた人々の中に、まだ灯る光がある。お前たちのその光を、私は確かめたい」

 虚竜ヴェルドの影は、ますます彼らに近づきつつある。暁晶の欠片はいくつか清められたが、ヴェルドの計画はそれだけで終わらない。旅団は互いを見やり、固く頷き合った。戦いは続く。だがこの先で何を失い、何を守るのか――それはまだ分からない。彼らができることは、ただ一歩ずつ前へ進むことだけだった。

第四章 学術都市アーク — 書庫と写本喰い(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  学術都市アークは、石と蔦の迷路だった。塔の尖りが空を突き、露天の書店が路地ごとに並ぶ。空気には古い紙と墨の匂いが混じっている。カイたちが城門をくぐると、通りの掲示板に「暁晶と欠片に関する写本閲覧許可」の貼り紙がされたばかりで、群衆の中には不穏な緊張が走っていた。欠片の事態が各地で報告され、学者たちも黙ってはいられないのだ。

 ユイの足取りは速い。目的地はアーク中央にそびえる地下書庫――公立とは思えぬ厳重さで、門番の詮索をかいくぐるには写本閲覧許可だけでは足りない。だがユイはすでに学術組織の小さな知り合いを頼り、薄笑みを浮かべて案内されるように地下へと足を踏み入れた。

 地下書庫の空気は冷たく、巻物や本が棚を埋め尽くす。ところどころ蝋燭の残り火が揺れ、長い年代の埃が空中に漂っていた。ユイは震える指で古い写本を取り出し、ページの隙間から古語を読み解く。写本は暁晶の結晶構造、欠片の分岐、そして「虚」の起源についての断片を示していた。

「暁晶は二層構造だ。核(コア)が中心にあり、環(リング)が四方で均衡を保っている。欠片は環の一部で、正しくはめ込まれれば回復の触媒となる。だが汚れた欠片は“共鳴”ではなく“同化”を生む――虚の芽が発生する」ユイが呟くように言った。

 すると、棚の奥から不協和音が立った。本がささやくようにズレ、影が棚の間を滑る。書庫の管理者が振り返ると、最初に見えたのはページがちぎれた古文書の端。だがその影はじょじょに形を取り、紙と糊と古い言葉を食らうように動き出した。

「写本喰い(しょほんくい)だ」――ユイの指が震えた。「古い文献に宿る‘記述された形’を栄養にする。虚に似ているが、対象は“言葉”だ」

 写本喰いは書棚の間を這い回り、触れた書物の一節が黒く腐り、字が抜け落ちていく。消えた語が空白となってページに残る。やがてその空白は自我を持ち、黒い渦となって周囲に広がろうとした。

 カイは掌の光を持ち上げた。だが今回は、ただ浄化するだけでは済まない。写本喰いは「言葉の欠落」を喰らうため、ユイの詠唱やリナの祈りを阻害しにかかる。言葉の意味が少しずつ崩れる感覚が、胸を締め付ける。

 ユイは息を整え、古語を繋ぎなおすようにして新たな詠唱を紡いだ。彼女の声は本の隙間に入り、抜け落ちた語を半ば無理やり繋げていく。リナはその瞬間に護符を展開し、ガロとトウヤが物理的に影を追い詰める。トウヤは糸を使って写本喰いの動きを封じ、ガロの斧が渦を裂いた。

 だが写本喰いは一度斬られてもすぐに復活する。古い文字の欠片が再び集まり、別の頁から湧き出してくるのだ。ユイは焦燥を抱えながら、持っていた写本の本文を嘴(くちばし)のように折り、意図的に言葉を「補修」し始めた。彼女の手は震え、汗が額を伝う。

「生きている記述を与えるの、今はこれしかない」――ユイは叫んだ。「記憶の断片を、ここで口伝として繋げる。私が声で持たせる!」

 カイはユイの言葉を受け、掌の光を言葉と共鳴させた。光がユイの声に追随すると、不思議な現象が起きた。写本喰いは光に触れると、その黒が薄れ、頁の空白に微かな輪郭が戻っていく。ユイの声が文字に「輪郭」を与えると、写本喰いの形は崩れ、やがて本の堆(うずたか)いの中へと引きずり込まれていった。

 最後の一節を詠唱したとき、地下書庫は静まりかえった。欠けていた語が完全に戻ったわけではないが、足りない部分を肉声で一時的に補い、写本喰いは力を失った。ユイは膝をつき、息を大きく吸った。

「これで数日は保てるはず……だが、このままでは根治できない」ユイは顔を上げ、仲間たちを見た。「写本喰いの出現は、暁晶の汚れと同根だ。ヴェルドが世界の輪郭を削っている。文字や名前が消えるほどに、虚は入りやすくなる」

 アークの学者たちは彼らに更なる資料と「言葉の詩式(ししき)」のレシピを与えた。古い呪文、名付けの儀礼、そして暁晶の核に近づくための古図――五人は情報を持ち、次の塔へ向かう準備を始める。だが、地下書庫で見つかった一枚の古地図の余白には、薄く書かれたある印――ヴェルドの古い紋章に酷似した小さな刻印があった。それは示唆する。

「虚竜は――完全に孤独じゃない。かつては人と竜の間に何かがあったのかもしれない」ユイは眉を寄せて言う。

 外に出ると、アークの街角に人影が消えかけていた。誰かが彼らを遠くから見ている気配があり、トウヤは背筋を走る冷たさを感じた。彼は鼻歌を止め、短く呟いた。

「空輪会の動きが増えてる。俺の耳にも、奴らが動き回ってるって情報がある。気をつけろよ」

 五人の旅団は、より多くの事を知るほどに、ヴェルドの輪郭がただ「巨大な竜」ではなく、人の心に寄生するある種の思想や選択をも含む存在であることを理解していった。彼らが次に向かうのは、砂と峡谷に抱かれた“炎環”の塔――セムナである。

第三章 虚の気配と仲間の影(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  ハドリンを後にする朝、城門の石に刻まれた空輪会の印はさらに濃くなっていた。触れたものは些細な事柄を忘れ、会話の途中で相手の名前が出てこなくなる。リナはそれを「輪郭の侵食」と呼んだ。

「虚は“線”を嫌う。名前、約束、記憶――それらが輪郭を作る。虚はそこを擦り減らして、代わりに『無』を差し出す。楽で簡単な選択を与えるのよ」

 道中、丘を越えた谷間で、羊飼いの娘が涙ながらに叫んでいた。群れが消え、弟が行方不明だという。ガロは言葉少なに前へ跳び出し、トウヤは細い糸を引き、リナは短く祈る。影は谷を満たし、そこで息をひそめている。

 カイが谷底へ駆け下りると、小さな少年が一本の棒で影と対峙していた。少年の目は恐怖の色を湛えながらも、頑なだった。影は口のない顎を開き、少年の希望を一口ずつ啜ろうとしているように見えた。

 そこへ突然、丘の縁から駆け下りてきた少女が現れる。分厚い写本を脇に抱え、息を切らせながら彼女は言った。

「待って、触らないで! 言葉を先に! 言葉で輪郭を縛れば、虚は弱る!」

 彼女の名はユイ。学術都市アークからの魔導士見習いで、古語と写本を愛する少女だ。彼女は本を開き、古い言葉を詠唱する。草の露が宙に舞い、細く織られた網のように影の周囲を縛る。網は影の動きを鈍らせ、カイはその隙に黎光を差し込む。

 影が裂けると、群れの羊は怯えながらも戻ってくる。少年は姉に抱きつき、泣きじゃくる。ユイは本を抱き締め、軽く鼻をすする。

「言葉は定義する道具よ。存在に名前を与えると、虚は入れない。欠片に関する文献がアークにあれば、我々はもっと効果的に欠片を扱える」

 ユイはそう告げ、旅団は自然と彼女を仲間に迎えた。五人目、学術と理論の力が加わることで、彼らの戦い方はより多面的になった。

 旅の夜、焚き火の周りでそれぞれが自分の過去を少しずつ語る。ガロはかつて守れなかった仲間の顔を、火の揺らぎの中だけに留めようとし、トウヤは孤独を笑いに変えることで自分を守ってきたことを匂わせる。リナは祈りと代償の話を、ユイは写本にまつわる逸話を淡々と語る。カイは父の短剣を膝に置き、黎光の意味を問い続ける。

 だが夜の風に乗って、低く遠い声がまた聞こえる。それは塔の中で聞いた声と同じ、冷たく嘲るような響きだった。

「いいぞ、いいぞ。輪郭というものがいかに脆いか、教えてやろう。暁晶を喰らい、世界をほどいてやる」

 その囁きに、旅団は小さな寒気を覚える。虚竜ヴェルドは遠くにいるだけではない。欠片のひとつひとつを通じて、少しずつ世界に爪痕を残している。彼らは知る――この先に待つ試練が、ただの怪物退治ではなく、人々の信頼や記憶、選択そのものを賭けた戦いであることを。

 村々の記憶が少しずつ薄れる中で、旅団の絆は逆に強まっていった。忘却に抗うために、彼らは互いの名を確かめ合い、約束を交わす。それは小さな抵抗であり、黎光の最小単位でもあった。

第二章 ハドリンの風と塔の瘡(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

 門をくぐると、ハドリンの風は明確に違った。塔の風は街に柔らかな流れを作り、埃も香りも均され、どこか安寧を与えていた。しかし、その日、塔の周りはどんよりと重く、広場の旗は垂れ下がり、屋台の布はぬめりを帯びていた。塔の壁には黒い瘡(かさ)のような斑点が広がり、風は淀んでいた。

 塔の麓で彼らを迎えたのは、鎧を身にまとった大男だった。灰色の鬚に深い皺。名はガロ。かつては王国軍の斧兵で、今は街の臨時防衛を仕切っている。彼は警戒心の強さと同時に、どこか守ることに誇りを持つ男だ。

「塔に入るなら覚悟を決めろ。中の風は、ただの風じゃねえ」

 だが、欠片は塔の中心に埋まり、その瘡が塔の魔力を歪めている。リナは静かに欠片の状態を見極める。

「欠片が不安定です。ヴェルドの“虚”が混じっている。単に奪うのではなく、欠片を媒体にして瘡を育てる。瘡は塔の機能を蝕み、風の輪郭を曖昧にする」

 階段を登ると、最初に襲いかかったのは影の群だった。風を纏った黒い鳥のような影が群れ、飛び交う。ガロの斧が重く振られ、枝のように裂かれた影が粉のように消える。トウヤは糸を張り巡らせて影を絡め取り、リナが結界を張り、カイが掌の光で影を浄化する。

 戦いが続く中、カイは自分の力が「浄化」だけでなく「輪郭をとりもどす」性質を持っていることに気づく。掌の光は単に影を溶かすだけでなく、かつてそこにあった形を一瞬だけ取り戻す。欠片の表面に浮かぶ模様が、光によって一瞬鮮やかになり、そのとき塔の風が整う。

 最上層、欠片が据えられた回転盤の前。瘡がその欠片を覆い、脈動するように広がっている。そこから生まれたのは“風の精”と呼ばれるはずのものが歪んだ姿だった。槍のような影の突起が、守りをねじ曲げた形で襲いかかる。

 ガロが槍を受け、トウヤが攻撃の軌道を操り、リナが守りを厚くする。カイは一歩踏み込んで欠片に触れた。瘡の粘膜が指に絡みつき、痛みが走る。しかしその痛みは、彼の内側から何かを呼び覚ました。黎光はただの光ではなく、「記憶と形を取り戻す力」であると、ふっと確信する。

 掌から金色の光輪が弾け、瘡が裂ける。欠片はかすかな呻きとともに澄んだ光を取り戻し、塔の風が戻る。だが、塔の奥底から低く、冷たい声が響いた。風に混じって、嘲るような音色が四人に落ちる。

「よくやった、黎光の担い手よ。だが、それは序章に過ぎぬ。我はヴェルド、虚の竜。暁の光を喰らわせ、世界の輪郭をほどいてやる」

 声は塔を震わせ、残響となって消えた。カイの胸に冷たいものが落ちる。リナは指先で短く印を結んだ。

「ヴェルド……名を聞いただけで、瓦解の気配がする。だが塔は守られた。これで四つの欠片のうち一つは清められたはずだ」

 ガロは肩越しに見下ろして笑う。「いいぜ。俺はこういうでかい相手、嫌いじゃねえ。お前らの背中は任せとけよ」

 だが塔を出ると、町の表情が少し変わっている。人々の間に小さな溝が生まれ、互いの目がそらされることが増えている。空輪会の印が街角で目立ち、そこに触れた者の表情がどこか遠くなる。ヴェルドの影は、塔の外にも広がっているのだ。

第一章 港を出る日と影の印(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  村長テレンは朝日を背に、厳しい顔でカイを見つめた。手にしていたのは、カイの父の短剣。父は遠征に出て帰らなかった。短剣の柄には潮の模様が刻まれている。

「親父さんはなあ……海にヤマを見たまま帰らなかったが、道具は嘘をつかねえ。持って行け、坊主」

 カイは短剣を受け取り、ぎこちなく柄を握る。重さが手に馴染む前に、彼の胸に不思議な重みが広がった。村の人々は出発を見送り、子供たちは目を輝かせるが、成人の目元には薄い影がある。

 村の外れ、石畳の道を歩いていると、ところどころに黒い印が描かれているのに気づく。丸の中を三本の線が絡まり、じっと見るとゆらりと揺れる。リナがそれに気づき、顔を固くする。

「空輪会の印だ。虚に魅入られた者たちが付ける。ヴェルドの追従者は、まず選択を奪う。楽なほうに寄せていくの」

 遠くから軽やかな足取りで近づいてきたのは、短剣と糸巻きを縫い合わせたような手つきの青年だった。薄い外套を羽織り、口元にいつも笑みを浮かべている。名前はトウヤ。旅芸人を自称するが、目はどこか冷たい。

「旅の仲間募集、って看板がないかなーと思ってさ。退屈は旅の大敵だ。俺も混ぜてくれ。面白い噂話を持ってるよ」

 トウヤの軽口は場の緊張をほぐすが、同時に彼の洞察は鋭かった。三人は行く道々で話し込み、やがて来たる困難に備える。夕刻、乾いた野原に焚き火を起こし、トウヤが骨笛を吹く。炎の光の下で、リナは静かに暁晶の話をする。

「暁晶は古代の結晶で、核と環からできています。その環の一つ一つが各地の塔に宿り、世界を保ってきた。だが今、四つの欠片が剥がれ落ち、塔を歪ませる。ヴェルドは——直接その欠片を汚し、虚を生むのです」

 カイは掌の光を確かめるように握っていた。掌は徐々に落ち着きを取り戻し、だが、夜風に触れるとまた小さな火花を弾いた。彼は不安と期待の狭間で眠れない夜を過ごした。

 真夜中、桟橋の方角で大きな音がした。海沿いを走る気配、ひび割れる板の叫び。カイたちは火を消して身を潜める。遠目に見えたのは、黒い影が低く海面を撫でるように動いていく様子だった。影は村の縁に触れると、そこにいた猫や小さな鳥が驚いて消えた。トウヤは唇を噛み、リナは無言で祈りの手を組む。

「これが……ヴェルドの先導する者たちの力か」

 カイは感覚の中で、虚の気配を察した。虚は単なる怪物ではない。人々の選択肢や記憶の端を、そっとなぞる能力を持っている。村人の一部は翌朝、顔色が変わっていた。商人が店の鍵を置き忘れたり、子供が母の名を一瞬忘れたりする。小さな穴が街の記憶に開いていく。

 旅の一行は、暁晶の欠片を探す最初の目的地――風の塔を擁する街、ハドリンを目指して歩き出した。カイは父の短剣をぎゅっと握りしめ、胸に灯る黎光の感覚をたしかめながら、歩を進めた。

序章 虚竜の前触れ(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  北の海は銀色の縞模様を帯び、漁村ノースリーフの朝はいつもより少し静かだった。カイは古い櫂を抱え、まだ薄暗い桟橋に立っていた。遠くの水平線で、空がゆっくりと裂ける――かすかな亀裂音が耳の奥に届き、海鳥の群れが一斉に飛び去った。やがて空の裂け目から暗い柱が落ち、海の上に黒い影がしみ込むように広がる。

 その瞬間、誰かが息を漏らすように、村中に囁きが走った。過去の古い噂の一語が、空気に触れたのだ。

 『ヴェルド――虚竜ヴェルド。』

 言葉はまるで風を引き寄せる針のように、村の心をチクチクと刺した。カイの掌がふっと暖かくなり、皮膚の下で淡い金色の光が点った。不意に、近くの海藻がはじけて黒い泡が空中に舞い上がる。光はそれに触れ、泡は無音で消えた。

 桟橋の方から柔らかい鈴の音が聞こえた。白い巡礼装束の女が、櫂の上に置かれたカイの手を見つめる。彼女は杖先の鈴を一度鳴らし、静かな声で名を告げた。

「リナ。暁晶の伝承を巡る巡礼の者です。虚竜ヴェルドの名が――もうここまで届いている」

 リナの目は冷たくも慈しみに満ちていた。彼女は言葉を続ける。

「暁晶は世界の季節と魔力を均す結晶。だが、その核が砕かれ、欠片が各守環の塔に落ちた。欠片が“汚れる”と、虚が芽吹き、輪郭が薄れる。あなたの中にある光は『黎光』。暁晶と反応しうる力かもしれない」

 カイは自分の手のひらを見つめた。掌の光は自分の意思とは無関係に、微かに震えているようだった。父の不在、何気ない港の暮らし、幼い日の夢——それらが急に薄く意味を持ち始め、カイは胸の奥で何かが動くのを感じた。世界が、自分を必要としているのかもしれないという予感。

 空の柱が消えた後、海の水面はまた平穏を取り戻す。しかし、波間に残った黒い痕跡は消えず、桟橋の周りの木材に黒い斑点が生じる。村の老人たちは顔を曇らせ、子供たちは泣き出す。リナは静かに立ち上がり、カイに差し出した。

「あなたの光が欠片を清められるなら、どうか共に来てください」

 カイはその言葉を聞き、そして答えた。港の生活を背に、彼の旅が始まった。