第九章 オルドの眠り — 夢を食う巨蟲(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  北へ向かう道中、旅団は鉱石の匂いと湿った土の香りが混じる山間の鉱都オルドへ入った。オルドは地の守環――土環を抱くところで、地下には無数の坑道と巨大な機械が眠っている。戦国のように働く鍛冶屋、黒ずくめの鉱夫、石を扱う職人たちの声が町を満たしていたが、眠気の波が街に漂っている。人々は眉間に皺を寄せ、眠ったように歩きながら何かを忘れたような表情をしている。

「ここは、夢を司るとも言われる土地」――リナの声は低い。「土環が侵されると、夢が現実と混ざり、人々の未来/過去の境が曖昧になる。そこに“夢を喰う者”が現れれば、眠りが食われ、希望が奪われる」

 坑道の入口で、彼らは奇妙な光景を目にする。大きな巣穴の前に、眠る人々が寄り合っている。彼らの顔は安らかだが、手には鋸屑のような欠片が握られている。坑道の奥から、微かな振動とともに巨大な音が伝わってきた。地鳴りのような息。やがて、闇の中から巨大な節足の影が滑り出す。全身が土で覆われ、胴には古い夢の断片――子供の玩具、古い結婚指輪、忘れられた歌の断片――が貼りついている。

 夢を食う巨蟲――その名にふさわしい怪物は、周囲の眠りを透かして生きている。触手の先が夢の断片に触れると、その断片は黒く溶け、持ち主の目が暗くなった。眠りはただの休息ではなく、記憶や希望が集まる場だった。喰われた夢は戻らない。

 坑道の中で、ガロは立ち尽くした。かつて失った仲間たちの夢や笑顔が、蟲の外殻に埋まっているのを見て、胸の中の傷が疼く。彼は一歩前に出て、斧を高く掲げた。

「お前は、夢を喰らうか。なら、俺が差し出すのは記憶だ。お前はそれを返せるか?」

 戦いは、肉体と心の両面での攻防になった。巨蟲の外殻は固く、普通の斬撃はほとんど効かない。ユイが詠唱で地盤を揺らし、坑道の支柱を崩して蟲の動きを鈍らせる。トウヤは糸で触手を縛り上げ、リナは眠る人々の夢の糸を結び直して守る。カイは掌の光を蟲の胴に向けるが、光は蟲の殻に吸い込まれてしまう。

 そこでユイがふと気づいた。蟲が貼り付けている断片は、ただの夢の残滓ではない――「名」を忘れた人々が捨ててしまった「輪郭」の欠片だ。ユイは古い詠唱を紡ぎ、坑道の中に残る“名”を一つずつ呼び戻す。すると、蟲が抱く断片の一つが光を取り戻して微かに震えた。

「夢は名と繋がっている。名がある限り、夢は返せる」――ユイの声には確信が宿っている。

 ガロは一つの断片を引き剥がし、叫んだ。「戻れ! お前らの笑顔を、返せ!」

 その叫びはただの怒声ではなく、かつての仲間への呼びかけでもあった。巨蟲は反応し、激しい振動を伴って動いた。すると、蟲の節の隙間から小さな光が溢れ、それはやがて一つの形――小さな人形のような姿へ戻り、近くの眠る女性の膝元に転がり落ちた。女性は目を開け、泣きながらそれを抱きしめた。

 しかし勝利は即効的ではない。蟲は深い傷を負いながらも、最後に一度だけ低い声を呟いたように聞こえた。

「――我は、飢えを止められぬ。虚の名は深い。暁晶の欠片が深く汚れていると、夢は一度で戻らぬ」

 それを聞いた瞬間、ユイの顔が青ざめる。彼女は写本から抜き出したメモを取り出し、そこに書かれた古い記述を読み上げた。

「暁晶の核は、単に『壊れる』のではなく、心の“穴”を反復して拡げる性質がある。欠片が深く汚されるほど、戻すための“代償”は増す。リナ、あなたに課された代償は始まりに過ぎない」

 リナは黙って頷いた。これまでに失われた記憶は小さなものだったが、これから先に待つ試練はより大きいかもしれない。ガロは蟲を見据え、拳を握る。彼の心に新たな決意が生まれていた――仲間の失ったものを、必ず取り戻すと。

 坑道を出ると、空は鉛色に曇っていた。人々の眠りは戻りつつあるが、町には静かな哀しみが漂う。ユイは新たな文献を写し取り、暁晶の核に近づく手引きを探す。トウヤは誰にも見せないように、糸の房を撫でている。それは彼にとって、守るべきものの象徴になっていった。

 だが旅団の前には、まだ多くの塔が残っている。四つの欠片のうち三つは清められつつあるが、汚れは深く、ヴェルドの狙いはますます明確だった。虚竜ヴェルドは単なる怪物ではない。彼の“虚”は、人々の選択、名、記憶――そうした輪郭を糧とし、世界をゆっくりとほどこうとしている。

 旅団は再び歩き出す。目指すは、暁晶の核へ通ずるという古の道。その道は人々の忘却と選択を試し、最後に“選び直す”決断を突きつけるだろう。カイは父の短剣を握り直し、リナは静かに祈りを捧げ、ユイは地図を折りたたむ。ガロは斧を肩に担ぎ、トウヤは糸を腕に巻いた。

 虚竜ヴェルドの影は、暗い雲のように彼らの上空を移動している。だが旅団の胸には、小さな光が灯っていた。それは消えそうで消えない、何度でも繋ぎ直せる光だった。

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