早朝、薄い霧が谷を這うころ、一行は小さな港町の裏通りに到着した。ここは空輪会の一派が潜伏しているという情報筋が示した場所だ。ユイが紙片に示した複数の屋号のうち、傷んだ看板を下げた古雑貨屋が最も怪しかった。店主は客を装って入り口に立っていた男と短い会話を交わすだけで、目だけで何かを確かめていた。
「空輪会は、組織というより“思想の伝染”だ。支部は小さな店先、遊技場、酒場――人の“選択”をゆっくり変える場所に根を張る」――ユイの言葉は冷静だが重い。
トウヤは路地に一歩入ると、ふと顔を曇らせた。彼の指先はいつものように糸を弄り、短い管笛を口にしては鳴らさずにしまう。焚き火の夜、彼は仲間に少しだけ過去を語った。幼い頃に家族を空輪会の宣伝で失ったこと、裏路地で生き延びるために“情報”を売り、その代わりに糸と短剣で身を守る術を覚えたこと。だがその“売り”は時に誰かを傷つけ、彼の胸に小さな亀裂を残していた。
雑貨屋の裏口から忍び込むのはガロの斧ひと振りで容易だったが、そこにあったのは単なる品物の山ではなく、人々の記憶や小さな誓約署名の束、そして空輪会の印刷物だった。押し入れの奥、壁の隙間に隠された箱の中には、古い軍の文書や、ガロの故郷の村を示す名簿が混じっていた。名簿には、知られざる「推薦者」の名が幾つか刻まれている。読み進めるうち、トウヤの顔が急に青ざめた。
「これ……俺の名前が載ってる」
トウヤの指が震える。過去、非公式に情報を売った相手の中に空輪会の手先がおり、彼の身元が“保護”という形で組織に結び付けられた痕跡だった。トウヤ自身は裏切ったつもりはない。しかし名簿は彼を“連絡役”として記している。彼の過去の小さな選択が、誰かの手で「方便」に変えられていたのだ。
その時、背後から扉が閉まる音。気配は既に包囲に変わっていた。空輪会の者たちが裏通りを囲み、隠し紋を示して扉を叩く。彼らは慈善風の衣装をまとっているが、目は冷たい。声は砂を噛んだように低い。
「トウヤ。出て来い。お前の“便り”は有益だった」
トウヤは一瞬、仲間に目を走らせた。ガロは斧を構え、ユイは詠唱の準備、リナは守りの印を結ぶ。だがトウヤは手を上げて静かに言った。
「待ってほしい。俺が出る。話をさせてくれ」
彼は戸を開けると、裏路地に姿を見せた。空輪会の男たちは一斉に短剣を抜いたが、トウヤは冷静だった。彼は自分の糸で男たちの足を絡め、巧みに動きを封じる。だが動きの中で、彼の面に一瞬だけ躊躇が浮かんだ。
「なぜお前が裏切りの名簿に?」――ガロの問いに、トウヤは答えた。
「昔、俺は情報で飯を食ってた。だが誰かに売った“嘘の名”が、ある家族を崩した。あの日から、人を操る言葉を吐く奴が憎い。だけど逃げてきただけの俺が、今ここで誰かを裁けるかって言えば、分からない」
空輪会の首領が歩み出た。黒い装飾の布を翻すその男は、ゆっくりと微笑みを浮かべた。
「トウヤ。お前は便利だ。だが今日、お前には選択を提供しよう。空輪会に戻るか、死ぬかだ。選べ」
その言葉に、トウヤの目が光った。彼は糸を引き、組み伏せた男を一掃するように仕掛ける。だがその瞬間、屋根の上から矢が飛び、闘いが激化する。屋根の影に隠れていたのは、かつてトウヤが世話になった“庇護者”と名乗る人物――だが彼もまた空輪会の手先であった。混乱の中、トウヤは叫びながら糸を操り、仲間のために道を作る。
結果的に、裏通りの戦いは旅団の勝利に終わる。だが勝利の代償は重かった。トウヤは自分の過去の“帳簿”を燃やすように破り捨てたが、心の奥には依然として“誰かを傷つけた”という影が残る。彼は夜、焚き火の端で静かに糸を撚りながら言った。
「俺は、これまでにした選択を全部赦すつもりはない。だが、今はお前たちといる。これが俺の“選択”だ」
その言葉を聞いた仲間たちは、言葉少なに頷いた。ユイは写本にあった空輪会の網羅図を写し取り、次の手がかりを探す。ガロはレオンの名簿に繋がる足跡を追って北へ向かうことを決めた。トウヤの糸は、今やただの武器ではなく、彼の贖罪の象徴になっていった。
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