空輪会の本拠は、かつて交易で栄えた城塞都市の地下深くに潜んでいた。表向きは慈善団体や学術サークルを装い、薄い善意と言葉の饗宴で市民を引き込む。だがその根は深く、町の記録、名簿、そして人々の「選択」の履歴までを書き換えていた。
ユイが写し取った地図は複雑だった。古い下水道網に紛れた小部屋、倉庫、偽装された礼拝所――その集合体が空輪会の「網」だ。旅団は昼間は別々に行動し、夜に合流して情報を摂取する作戦を取った。ガロは直截に力で概略を探り、ユイは文献と書類の痕跡を追い、リナは人の心の反応を見極め、トウヤは路地の噂と息をつなぎ、カイは夜明けとともに黎光の感覚で欠片の兆候を探す。
ある夜、トウヤが酒場の小さな台に上がって口上を始めた。彼の歌は軽やかだが、細工が施されている。空輪会の連絡役を気取った者が耳を立てると、すぐに注意を引かれ、仲間たちの仕込みが作動する。背後の壁から隠し扉が開き、暗い階段が現れる。それは空輪会の地下への入り口であり、トウヤの合図で仲間は一斉に動き出した。
地下は冷たく、蝋燭の光が薄く揺れる。壁には無数の記録が貼られ、名前と日付が改竄されている。そこかしこに「選択の推薦」という名の署名があり、押印には見覚えのある紋章――あのヴェルドの変形した印があった。ユイがそれを指でなぞると、彼女の指先にかすかな震えが走った。
「これ……ただの組織じゃない。誰かが意図的に人の“選択”を再配列している」――ユイの声はひそやかだが確信に満ちていた。「そしてその中心にヴェルドに関する“儀式”の痕跡がある」
廊下の突き当たりに大きな部屋があり、そこには空輪会の幹部たちが集っていた。中央の祭壇には、小さな暁晶の模型と、竜の鱗の断片らしきものが置かれている。その上で、ある男が高らかに話をしていた。彼は穏やかな笑みを浮かべ、言葉を選びながら人々の心を撫でるように語っている。だが目は冷たく、まるで何かを計算している。
「我々は人々に選びを与えているのではない。選びを解放しているのだ。苦しみからの解放。それが、真の慈悲だ」――男の言葉に拍手が湧く。
ガロは斧を構えようとしたが、リナが掴んだ。彼女の目は冷静だ。「突入はまずい。今ここで斬り合えば、人々に矛盾の種を撒く。彼らは“救済”の名の下にもっと深く浸透する」
そこでカイが前に出た。彼は静かに光を掌に集め、その温度で空気の輪郭を確かめる。光は祭壇の模型に反応し、微かに震えた。模型の中に封じられた痕跡は、生きているかのように答えを返す。カイは口を開く。
「あなたたちは‘選択’を奪っている。それを与えるのは神の慈悲でも、社会の配慮でもない。人が自ら選ぶことを止めさせるのは、自由の死だ」
男は微笑みを崩さず、ゆっくりと立ち上がる。やがて暴露が始まる。男の名は“修辞者”マルコス。かつては学者で、言語と政治の間で揺れ動いた者だという。彼はヴェルドの存在を「終局的な合理性」として解釈し、人々に負担を減らすための“忘却”を施すことこそが救済であると主張していた。
「虚は恐ろしいものではない。虚は空白だ。空白は可能性を孕む。選択という縛りは苦痛を生む。われわれは苦痛を取り除くために、輪郭を取り外す」
その理念の論理性に、幹部たちは拍手を重ねる。だが、彼らが忘れているのは――輪郭を失うことが、同時に“尊厳”や“記憶”を奪うことだとリナが静かに言うと、マルコスの笑みに僅かな陰りが差した。
騒ぎはすぐに始まった。空輪会の護衛が飛び出し、地下の石室は一瞬にして戦場になった。カイの光が祭壇の模型に走ると、その模型からかすかな叫びが漏れ出した。模型は砕け、盛り上がっていた紋章の鱗片がひとつ床に跳ねた。床を叩いた衝撃で地下の古い構造が軋み、長年押し込められていた空気が噴き出した。
そのとき、マルコスの背後から深い咆哮が響いた。床のひび割れから、黒い影がゆっくりと立ち上がる。空輪会の幹部の顔が一瞬にして青ざめる。そこに姿を見せたのは小さな竜――だが人のような目を持ち、鱗の間に古い暁晶の欠片が埋まっている。ヴェルドの眷属か、それともヴェルド自身の一端か。マルコスは震える声で呟いた。
「我が理が、ついに……」
竜は口を開き、静かに言った。言葉は人の言語に似ているが、そこに含まれるのは空虚と懐疑だけだった。
「我は“穴”を満たす者。人は自らの縁を嫌い、我を求める。そこに芽生えるのは安寧か、あるいは滅びか。どちらでもよい」
その瞬間、カイは理解した――空輪会はヴェルドの“前哨”であり、マルコスのような理論家がヴェルドの思想を人々に説き、実態としての虚が着実に拡がっていたのだ。戦いは熾烈を極めたが、最後にマルコスは逃亡、空輪会の根は一部つぶれたものの、空輪会の理念は消えず、どこへでも広がれる種子となってしまった。
地下から這い出ると、谷間の町は静かに見えた。だがトウヤは黙って遠くを見つめ、糸をそっと握り締めた。彼の指先には、かつて誰かが与えた「選択の記録」が焼きついている。自分の過去は消せない――だが今、彼は己の糸で新たな道を結うと決めた。
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