ハドリンを後にする朝、城門の石に刻まれた空輪会の印はさらに濃くなっていた。触れたものは些細な事柄を忘れ、会話の途中で相手の名前が出てこなくなる。リナはそれを「輪郭の侵食」と呼んだ。
「虚は“線”を嫌う。名前、約束、記憶――それらが輪郭を作る。虚はそこを擦り減らして、代わりに『無』を差し出す。楽で簡単な選択を与えるのよ」
道中、丘を越えた谷間で、羊飼いの娘が涙ながらに叫んでいた。群れが消え、弟が行方不明だという。ガロは言葉少なに前へ跳び出し、トウヤは細い糸を引き、リナは短く祈る。影は谷を満たし、そこで息をひそめている。
カイが谷底へ駆け下りると、小さな少年が一本の棒で影と対峙していた。少年の目は恐怖の色を湛えながらも、頑なだった。影は口のない顎を開き、少年の希望を一口ずつ啜ろうとしているように見えた。
そこへ突然、丘の縁から駆け下りてきた少女が現れる。分厚い写本を脇に抱え、息を切らせながら彼女は言った。
「待って、触らないで! 言葉を先に! 言葉で輪郭を縛れば、虚は弱る!」
彼女の名はユイ。学術都市アークからの魔導士見習いで、古語と写本を愛する少女だ。彼女は本を開き、古い言葉を詠唱する。草の露が宙に舞い、細く織られた網のように影の周囲を縛る。網は影の動きを鈍らせ、カイはその隙に黎光を差し込む。
影が裂けると、群れの羊は怯えながらも戻ってくる。少年は姉に抱きつき、泣きじゃくる。ユイは本を抱き締め、軽く鼻をすする。
「言葉は定義する道具よ。存在に名前を与えると、虚は入れない。欠片に関する文献がアークにあれば、我々はもっと効果的に欠片を扱える」
ユイはそう告げ、旅団は自然と彼女を仲間に迎えた。五人目、学術と理論の力が加わることで、彼らの戦い方はより多面的になった。
旅の夜、焚き火の周りでそれぞれが自分の過去を少しずつ語る。ガロはかつて守れなかった仲間の顔を、火の揺らぎの中だけに留めようとし、トウヤは孤独を笑いに変えることで自分を守ってきたことを匂わせる。リナは祈りと代償の話を、ユイは写本にまつわる逸話を淡々と語る。カイは父の短剣を膝に置き、黎光の意味を問い続ける。
だが夜の風に乗って、低く遠い声がまた聞こえる。それは塔の中で聞いた声と同じ、冷たく嘲るような響きだった。
「いいぞ、いいぞ。輪郭というものがいかに脆いか、教えてやろう。暁晶を喰らい、世界をほどいてやる」
その囁きに、旅団は小さな寒気を覚える。虚竜ヴェルドは遠くにいるだけではない。欠片のひとつひとつを通じて、少しずつ世界に爪痕を残している。彼らは知る――この先に待つ試練が、ただの怪物退治ではなく、人々の信頼や記憶、選択そのものを賭けた戦いであることを。
村々の記憶が少しずつ薄れる中で、旅団の絆は逆に強まっていった。忘却に抗うために、彼らは互いの名を確かめ合い、約束を交わす。それは小さな抵抗であり、黎光の最小単位でもあった。