第六章 沈む都リュクス — 水鏡の嘘(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  道は海へと戻る。砂の国を抜け、旅団は波音の中に新たな風景を見出した。リュクス――その名は水の都を意味し、湾を囲むように層状の街が築かれている。水面に反射する建物は、まるで二重の都市を抱えているかのようだ。だが今、リュクスの水面は揺らぎ、鏡像が歪んでいる。人々の顔が水面に映ると、そこにほんのわずかな違和感が生じる――笑顔が嘘に見え、親しげな仕草が冷たく裏返る。

 港に降りると、漁師たちが互いに背を向けている。客引きは店の前で声をかけるが、誰も振り向かない。店主の目は虚ろで、言葉を聞いても反応しない。リナは小さく息を吐いた。

「水鏡――ここでは“真実の反映”が歪められる。虚は真実を捻じ曲げ、人を自らの疑念へと誘う。疑念はやがて選択の放棄になる」

 ユイは港の倉庫で見つけた古い地図を広げ、指である地点を指した。「ここに‘鏡楼(きょうろう)’とある。水面を鏡のようにする古い儀礼の場だ。そこが汚染されていると、映る真実が嘘に変わる。欠片の影響範囲が広い」

 リュクスの中心、鏡楼へ向かう道は迷路だった。水にかかる石橋の先々に、人の影がちらつく。ある石畳の上では、二人の商人が口論をしていたが、その内容は曖昧だ。カイが割って入り、両者を引き離すと、二人は一瞬戸惑い、顔から表情が消えた。言葉は途切れ、互いの名前が宙に浮く。小さな“穴”が出来ているのだ。

 鏡楼の扉は重く閉ざされていた。扉に付けられた金具には、空輪会の印がほのかに彫られている。扉を押し開けると、室内は光と水と影の混ざり合い。中央に浮かぶ大きな水盤が、鏡のように都市全体を映している。その水面が揺れるたび、遠景の人々の表情が歪む。

 やがて水面が震え、そこから一つの“像”が立ち上がった。鏡像は本物の模倣だが、端々が鋭く誇張されている。友人の像は冷たく嘲り、恋人の像は裏切りを示唆する視線を投げる。見る者の心の弱点をつつき、疑念を育てる。鏡像は言葉を発し、囁きが耳に残る。

「お前は裏切られている」
「本当にこれを守りたいのか?」
「選ぶなら楽な方だ」

 ユイは詠唱を始めるが、言葉が水面に反転して戻ってくる。反転した言葉は語感を変え、人の心に刺さる。リナが結界を張ろうとするが、結界の輪郭さえ揺らぐ。水鏡は“言葉の意味”そのものを歪めるのだ。

 混乱が広がる。親子は互いに顔を見合わせ、目的のない怒りで叫び始める。ガロは斧を掲げて振り払い、トウヤは糸で鏡像の手を捕らえようとするが、像は容易に形を変える。カイは声を上げた。

「お前たち、聞け! ここに映るのは、君たちの全部じゃない! それぞれの欠片が、真実を細断しているだけだ!」

 だがその言葉さえ、鏡は無慈悲に弄ぶ。誰かの耳に届けば届くほど、言葉のエッジが削られ、誤解が生じる。ユイは必死に古語の名付け詩を紡ぐ。彼女は鏡に向かって、ある“名”を唱え続けた。それは、過去に鏡楼で詠まれた“守りの名”だった。名を復唱するごとに、水面に浮かぶ像の輪郭が少しずつ戻ってくる。

 その時、鏡楼の中央、水盤の中からひときわ大きな影が立ち上がった。水と影でできた竜の形――だがその姿はただの獣ではない。頭部は甲羅のように分節し、胸には古い紋章が半ば溶けたように浮かんでいる。カイはその胸に、かつて見たような紋章の残像を認めた――暁晶の文様と、そして薄れていく“竜の印”。

 竜は水鏡を引き裂くように咆哮し、その声は疑念を言葉に変えて放った。

「真実は脆い。人は自らの輪郭を放す。私はそれを喰らう──ヴェルドの名を冠した者よ、我は虚竜の一端だ」

 戦いは、ここでは“声”の奪い合いになった。ユイは声を高め、古名を復唱する。リナは祈りで人々の心の線を結び直す。カイは掌の光を水面に走らせ、鏡像の輪郭を“なぞる”。不思議なことに、光が輪郭を追うたびに像の歪みが解け、鏡面の下に眠る本来の情景が露出する。

 その隙に、トウヤは鏡像の“背”へ飛びついた。糸を器用に使い、水の竜の尾を絡め取る。だがその瞬間、トウヤの眼が一瞬だけ濁った。彼の微笑は歪み、過去の一場面が彼の瞳に映る――幼い頃、誰かに裏切られたかのような痛みの記憶。トウヤは短く呻いたが、裂けた思考を振り払って糸を絞った。

 ついにユイが最後の名を唱え終えると、水竜は水面に叩きつけられ、波紋が広がった。鏡楼の水面は静まり返り、歪んだ像は消えた。だが勝利は安堵とは違う。リュクスの人々の多くが、自分たちの心に生じた“穴”を感じていた。誰かの笑顔がどこか遠くにあると感じ、互いに少しだけ距離を置く。水鏡は癒えても、裂け目は完全には塞がらない。

 カイが港で一人の老人と話したとき、老人は昔の言葉を少し忘れてしまっていた。幼い頃の恋人の名前を、ふと思い出せない。カイは黙って老人の手を取った。言葉が戻らなくとも、手の温かさは確かだ。リナは静かに呟く。

「虚は一度入ると、痕跡を残す。でも、繋ぎ直すことはできる。時間はかかるが、人は名前を取り戻せる」

 トウヤは海を見つめ、口をつぐむ。彼の胸の奥に、また別の影が蠢いている気配がある。空輪会の足取りはリュクスでも見られ、誰かが動いている。ユイは写本に新たな記録を刻み、五人の旅団は次の目的地へと舟を進めた。水鏡は割れた形を癒したが、ヴェルドの影はますます明瞭に、彼らの航路を覆っている。

第五章 砂の国セムナ — 灼熱の試練(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  セムナへ向かう道は、アークの緑から次第に砂へと変わった。風は熱く、空は白く光る。峡谷は苛烈な日差しに削られ、遠くで地響きがする度に砂塵が巻き上がる。ここには風の繊細さではなく、時間と熱が支配する。

 塔の入口に立つと、そこは巨大な砂時計のように設計されていた。砂は止まっているのではなく、逆行したり溜まったりしている。守環の“炎環”は、時間と熱の均衡を司るはずだが、今は歪み、時の流れが局所的に乱れていた。蒼白の光が砂漠の表面でひび割れて、蜃気楼のような幻が時折見える。

 入口で彼らを迎えたのは砂塵に焼けた商人と、塔の守りを手伝う小さな部隊だ。だがその目はどこか虚ろで、底にあるはずの希望が薄れている。セムナの人々は、熱と空間の狂いの前にうなだれ、選択肢を失いかけていた。

「ここで時間が狂うと、人はいつまでも過去の痛みに囚われるかもしれない」――リナが小さく言った。

 塔の内部は、歩くたびに過ぎ去った時間の断片が一瞬現れる。床に映る影が先の戦いを再演し、振り返ると自分の過去の姿がそこにいる。カイは父と並んで小船を直す昔の自分と目が合い、胸が締め付けられる。ガロは旧友と笑いあう場面がふいに現れ、刃の冷たさが甦る。過去の好機が目の前に提示されるたびに、どう対処するかで未来が変わるようだった。

 塔の核心で待ち受けていたのは、炎を纏う巨像――炎の欠片が“憤怒”の形をとった獣だった。巨像は過去の憤りや恨みを集めて成長し、噴き上がる火が塔内の時間を焦がしている。戦いは苛烈を極めた。炎がユイの詠唱を妨げ、時空の歪みが戦闘のリズムを狂わせる。

 その最中、リナが前に出て叫んだ。

「カイ、あなたはただ憤りを浄化するだけじゃない! 過去の“形”を取り戻してあげて!」

 カイは掌の光を強く握りしめ、目を閉じた。光は熱を帯び、彼に古い記憶のイメージを送る。それは憤怒に焼かれた人々の顔、癒されぬ傷跡、失われた約束だった。カイは一つずつ、その輪郭を光でなぞる。すると炎の巨像は叫び、短い断末魔と共に爆散する。砂時計の砂の流れが整い、時の逆巻きが止まる。

 だがその直後、リナの顔にひどく疲れた影が落ちる。熱は彼女に別の代償を要求していた。守護の術は彼女が自らの記憶を糧にすることで成り立っており、祈りの一つ一つが彼女の記憶の一片を削っていたのだ。塔を救った代わりに、リナは幼い頃の記憶のひとつを失った。

「なにを失ったの?」――カイの声は震えた。

「小さな花の名前。……でも、大丈夫。私はまだここにいる」リナは微笑んだが、その瞳に宿る薄い影は消えない。

 セムナでの勝利は重かった。仲間たちは一人ずつ自分たちの中の欠片を抱え、外に出た。ユイはノートに細かく観察を記し、ガロは黙って大斧の柄を拭く。トウヤはいつもの軽口を取り戻そうとするが、その声は少しだけ震えを帯びていた。

 外に出ると、砂丘の向こうに小さな影が翳っているのが見えた。それは大きく、竜の躯体を思わせる。だがヴェルドの全貌ではない。遠くから聞こえたのは、あの冷たい声ではなく、低い咆哮と共に、かすかな囁きだった。

「世界はほぐれていく。だが、そこで見えるのは“何か”だ。輪郭を失いかけた人々の中に、まだ灯る光がある。お前たちのその光を、私は確かめたい」

 虚竜ヴェルドの影は、ますます彼らに近づきつつある。暁晶の欠片はいくつか清められたが、ヴェルドの計画はそれだけで終わらない。旅団は互いを見やり、固く頷き合った。戦いは続く。だがこの先で何を失い、何を守るのか――それはまだ分からない。彼らができることは、ただ一歩ずつ前へ進むことだけだった。

第四章 学術都市アーク — 書庫と写本喰い(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  学術都市アークは、石と蔦の迷路だった。塔の尖りが空を突き、露天の書店が路地ごとに並ぶ。空気には古い紙と墨の匂いが混じっている。カイたちが城門をくぐると、通りの掲示板に「暁晶と欠片に関する写本閲覧許可」の貼り紙がされたばかりで、群衆の中には不穏な緊張が走っていた。欠片の事態が各地で報告され、学者たちも黙ってはいられないのだ。

 ユイの足取りは速い。目的地はアーク中央にそびえる地下書庫――公立とは思えぬ厳重さで、門番の詮索をかいくぐるには写本閲覧許可だけでは足りない。だがユイはすでに学術組織の小さな知り合いを頼り、薄笑みを浮かべて案内されるように地下へと足を踏み入れた。

 地下書庫の空気は冷たく、巻物や本が棚を埋め尽くす。ところどころ蝋燭の残り火が揺れ、長い年代の埃が空中に漂っていた。ユイは震える指で古い写本を取り出し、ページの隙間から古語を読み解く。写本は暁晶の結晶構造、欠片の分岐、そして「虚」の起源についての断片を示していた。

「暁晶は二層構造だ。核(コア)が中心にあり、環(リング)が四方で均衡を保っている。欠片は環の一部で、正しくはめ込まれれば回復の触媒となる。だが汚れた欠片は“共鳴”ではなく“同化”を生む――虚の芽が発生する」ユイが呟くように言った。

 すると、棚の奥から不協和音が立った。本がささやくようにズレ、影が棚の間を滑る。書庫の管理者が振り返ると、最初に見えたのはページがちぎれた古文書の端。だがその影はじょじょに形を取り、紙と糊と古い言葉を食らうように動き出した。

「写本喰い(しょほんくい)だ」――ユイの指が震えた。「古い文献に宿る‘記述された形’を栄養にする。虚に似ているが、対象は“言葉”だ」

 写本喰いは書棚の間を這い回り、触れた書物の一節が黒く腐り、字が抜け落ちていく。消えた語が空白となってページに残る。やがてその空白は自我を持ち、黒い渦となって周囲に広がろうとした。

 カイは掌の光を持ち上げた。だが今回は、ただ浄化するだけでは済まない。写本喰いは「言葉の欠落」を喰らうため、ユイの詠唱やリナの祈りを阻害しにかかる。言葉の意味が少しずつ崩れる感覚が、胸を締め付ける。

 ユイは息を整え、古語を繋ぎなおすようにして新たな詠唱を紡いだ。彼女の声は本の隙間に入り、抜け落ちた語を半ば無理やり繋げていく。リナはその瞬間に護符を展開し、ガロとトウヤが物理的に影を追い詰める。トウヤは糸を使って写本喰いの動きを封じ、ガロの斧が渦を裂いた。

 だが写本喰いは一度斬られてもすぐに復活する。古い文字の欠片が再び集まり、別の頁から湧き出してくるのだ。ユイは焦燥を抱えながら、持っていた写本の本文を嘴(くちばし)のように折り、意図的に言葉を「補修」し始めた。彼女の手は震え、汗が額を伝う。

「生きている記述を与えるの、今はこれしかない」――ユイは叫んだ。「記憶の断片を、ここで口伝として繋げる。私が声で持たせる!」

 カイはユイの言葉を受け、掌の光を言葉と共鳴させた。光がユイの声に追随すると、不思議な現象が起きた。写本喰いは光に触れると、その黒が薄れ、頁の空白に微かな輪郭が戻っていく。ユイの声が文字に「輪郭」を与えると、写本喰いの形は崩れ、やがて本の堆(うずたか)いの中へと引きずり込まれていった。

 最後の一節を詠唱したとき、地下書庫は静まりかえった。欠けていた語が完全に戻ったわけではないが、足りない部分を肉声で一時的に補い、写本喰いは力を失った。ユイは膝をつき、息を大きく吸った。

「これで数日は保てるはず……だが、このままでは根治できない」ユイは顔を上げ、仲間たちを見た。「写本喰いの出現は、暁晶の汚れと同根だ。ヴェルドが世界の輪郭を削っている。文字や名前が消えるほどに、虚は入りやすくなる」

 アークの学者たちは彼らに更なる資料と「言葉の詩式(ししき)」のレシピを与えた。古い呪文、名付けの儀礼、そして暁晶の核に近づくための古図――五人は情報を持ち、次の塔へ向かう準備を始める。だが、地下書庫で見つかった一枚の古地図の余白には、薄く書かれたある印――ヴェルドの古い紋章に酷似した小さな刻印があった。それは示唆する。

「虚竜は――完全に孤独じゃない。かつては人と竜の間に何かがあったのかもしれない」ユイは眉を寄せて言う。

 外に出ると、アークの街角に人影が消えかけていた。誰かが彼らを遠くから見ている気配があり、トウヤは背筋を走る冷たさを感じた。彼は鼻歌を止め、短く呟いた。

「空輪会の動きが増えてる。俺の耳にも、奴らが動き回ってるって情報がある。気をつけろよ」

 五人の旅団は、より多くの事を知るほどに、ヴェルドの輪郭がただ「巨大な竜」ではなく、人の心に寄生するある種の思想や選択をも含む存在であることを理解していった。彼らが次に向かうのは、砂と峡谷に抱かれた“炎環”の塔――セムナである。

第三章 虚の気配と仲間の影(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  ハドリンを後にする朝、城門の石に刻まれた空輪会の印はさらに濃くなっていた。触れたものは些細な事柄を忘れ、会話の途中で相手の名前が出てこなくなる。リナはそれを「輪郭の侵食」と呼んだ。

「虚は“線”を嫌う。名前、約束、記憶――それらが輪郭を作る。虚はそこを擦り減らして、代わりに『無』を差し出す。楽で簡単な選択を与えるのよ」

 道中、丘を越えた谷間で、羊飼いの娘が涙ながらに叫んでいた。群れが消え、弟が行方不明だという。ガロは言葉少なに前へ跳び出し、トウヤは細い糸を引き、リナは短く祈る。影は谷を満たし、そこで息をひそめている。

 カイが谷底へ駆け下りると、小さな少年が一本の棒で影と対峙していた。少年の目は恐怖の色を湛えながらも、頑なだった。影は口のない顎を開き、少年の希望を一口ずつ啜ろうとしているように見えた。

 そこへ突然、丘の縁から駆け下りてきた少女が現れる。分厚い写本を脇に抱え、息を切らせながら彼女は言った。

「待って、触らないで! 言葉を先に! 言葉で輪郭を縛れば、虚は弱る!」

 彼女の名はユイ。学術都市アークからの魔導士見習いで、古語と写本を愛する少女だ。彼女は本を開き、古い言葉を詠唱する。草の露が宙に舞い、細く織られた網のように影の周囲を縛る。網は影の動きを鈍らせ、カイはその隙に黎光を差し込む。

 影が裂けると、群れの羊は怯えながらも戻ってくる。少年は姉に抱きつき、泣きじゃくる。ユイは本を抱き締め、軽く鼻をすする。

「言葉は定義する道具よ。存在に名前を与えると、虚は入れない。欠片に関する文献がアークにあれば、我々はもっと効果的に欠片を扱える」

 ユイはそう告げ、旅団は自然と彼女を仲間に迎えた。五人目、学術と理論の力が加わることで、彼らの戦い方はより多面的になった。

 旅の夜、焚き火の周りでそれぞれが自分の過去を少しずつ語る。ガロはかつて守れなかった仲間の顔を、火の揺らぎの中だけに留めようとし、トウヤは孤独を笑いに変えることで自分を守ってきたことを匂わせる。リナは祈りと代償の話を、ユイは写本にまつわる逸話を淡々と語る。カイは父の短剣を膝に置き、黎光の意味を問い続ける。

 だが夜の風に乗って、低く遠い声がまた聞こえる。それは塔の中で聞いた声と同じ、冷たく嘲るような響きだった。

「いいぞ、いいぞ。輪郭というものがいかに脆いか、教えてやろう。暁晶を喰らい、世界をほどいてやる」

 その囁きに、旅団は小さな寒気を覚える。虚竜ヴェルドは遠くにいるだけではない。欠片のひとつひとつを通じて、少しずつ世界に爪痕を残している。彼らは知る――この先に待つ試練が、ただの怪物退治ではなく、人々の信頼や記憶、選択そのものを賭けた戦いであることを。

 村々の記憶が少しずつ薄れる中で、旅団の絆は逆に強まっていった。忘却に抗うために、彼らは互いの名を確かめ合い、約束を交わす。それは小さな抵抗であり、黎光の最小単位でもあった。

第二章 ハドリンの風と塔の瘡(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

 門をくぐると、ハドリンの風は明確に違った。塔の風は街に柔らかな流れを作り、埃も香りも均され、どこか安寧を与えていた。しかし、その日、塔の周りはどんよりと重く、広場の旗は垂れ下がり、屋台の布はぬめりを帯びていた。塔の壁には黒い瘡(かさ)のような斑点が広がり、風は淀んでいた。

 塔の麓で彼らを迎えたのは、鎧を身にまとった大男だった。灰色の鬚に深い皺。名はガロ。かつては王国軍の斧兵で、今は街の臨時防衛を仕切っている。彼は警戒心の強さと同時に、どこか守ることに誇りを持つ男だ。

「塔に入るなら覚悟を決めろ。中の風は、ただの風じゃねえ」

 だが、欠片は塔の中心に埋まり、その瘡が塔の魔力を歪めている。リナは静かに欠片の状態を見極める。

「欠片が不安定です。ヴェルドの“虚”が混じっている。単に奪うのではなく、欠片を媒体にして瘡を育てる。瘡は塔の機能を蝕み、風の輪郭を曖昧にする」

 階段を登ると、最初に襲いかかったのは影の群だった。風を纏った黒い鳥のような影が群れ、飛び交う。ガロの斧が重く振られ、枝のように裂かれた影が粉のように消える。トウヤは糸を張り巡らせて影を絡め取り、リナが結界を張り、カイが掌の光で影を浄化する。

 戦いが続く中、カイは自分の力が「浄化」だけでなく「輪郭をとりもどす」性質を持っていることに気づく。掌の光は単に影を溶かすだけでなく、かつてそこにあった形を一瞬だけ取り戻す。欠片の表面に浮かぶ模様が、光によって一瞬鮮やかになり、そのとき塔の風が整う。

 最上層、欠片が据えられた回転盤の前。瘡がその欠片を覆い、脈動するように広がっている。そこから生まれたのは“風の精”と呼ばれるはずのものが歪んだ姿だった。槍のような影の突起が、守りをねじ曲げた形で襲いかかる。

 ガロが槍を受け、トウヤが攻撃の軌道を操り、リナが守りを厚くする。カイは一歩踏み込んで欠片に触れた。瘡の粘膜が指に絡みつき、痛みが走る。しかしその痛みは、彼の内側から何かを呼び覚ました。黎光はただの光ではなく、「記憶と形を取り戻す力」であると、ふっと確信する。

 掌から金色の光輪が弾け、瘡が裂ける。欠片はかすかな呻きとともに澄んだ光を取り戻し、塔の風が戻る。だが、塔の奥底から低く、冷たい声が響いた。風に混じって、嘲るような音色が四人に落ちる。

「よくやった、黎光の担い手よ。だが、それは序章に過ぎぬ。我はヴェルド、虚の竜。暁の光を喰らわせ、世界の輪郭をほどいてやる」

 声は塔を震わせ、残響となって消えた。カイの胸に冷たいものが落ちる。リナは指先で短く印を結んだ。

「ヴェルド……名を聞いただけで、瓦解の気配がする。だが塔は守られた。これで四つの欠片のうち一つは清められたはずだ」

 ガロは肩越しに見下ろして笑う。「いいぜ。俺はこういうでかい相手、嫌いじゃねえ。お前らの背中は任せとけよ」

 だが塔を出ると、町の表情が少し変わっている。人々の間に小さな溝が生まれ、互いの目がそらされることが増えている。空輪会の印が街角で目立ち、そこに触れた者の表情がどこか遠くなる。ヴェルドの影は、塔の外にも広がっているのだ。

第一章 港を出る日と影の印(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  村長テレンは朝日を背に、厳しい顔でカイを見つめた。手にしていたのは、カイの父の短剣。父は遠征に出て帰らなかった。短剣の柄には潮の模様が刻まれている。

「親父さんはなあ……海にヤマを見たまま帰らなかったが、道具は嘘をつかねえ。持って行け、坊主」

 カイは短剣を受け取り、ぎこちなく柄を握る。重さが手に馴染む前に、彼の胸に不思議な重みが広がった。村の人々は出発を見送り、子供たちは目を輝かせるが、成人の目元には薄い影がある。

 村の外れ、石畳の道を歩いていると、ところどころに黒い印が描かれているのに気づく。丸の中を三本の線が絡まり、じっと見るとゆらりと揺れる。リナがそれに気づき、顔を固くする。

「空輪会の印だ。虚に魅入られた者たちが付ける。ヴェルドの追従者は、まず選択を奪う。楽なほうに寄せていくの」

 遠くから軽やかな足取りで近づいてきたのは、短剣と糸巻きを縫い合わせたような手つきの青年だった。薄い外套を羽織り、口元にいつも笑みを浮かべている。名前はトウヤ。旅芸人を自称するが、目はどこか冷たい。

「旅の仲間募集、って看板がないかなーと思ってさ。退屈は旅の大敵だ。俺も混ぜてくれ。面白い噂話を持ってるよ」

 トウヤの軽口は場の緊張をほぐすが、同時に彼の洞察は鋭かった。三人は行く道々で話し込み、やがて来たる困難に備える。夕刻、乾いた野原に焚き火を起こし、トウヤが骨笛を吹く。炎の光の下で、リナは静かに暁晶の話をする。

「暁晶は古代の結晶で、核と環からできています。その環の一つ一つが各地の塔に宿り、世界を保ってきた。だが今、四つの欠片が剥がれ落ち、塔を歪ませる。ヴェルドは——直接その欠片を汚し、虚を生むのです」

 カイは掌の光を確かめるように握っていた。掌は徐々に落ち着きを取り戻し、だが、夜風に触れるとまた小さな火花を弾いた。彼は不安と期待の狭間で眠れない夜を過ごした。

 真夜中、桟橋の方角で大きな音がした。海沿いを走る気配、ひび割れる板の叫び。カイたちは火を消して身を潜める。遠目に見えたのは、黒い影が低く海面を撫でるように動いていく様子だった。影は村の縁に触れると、そこにいた猫や小さな鳥が驚いて消えた。トウヤは唇を噛み、リナは無言で祈りの手を組む。

「これが……ヴェルドの先導する者たちの力か」

 カイは感覚の中で、虚の気配を察した。虚は単なる怪物ではない。人々の選択肢や記憶の端を、そっとなぞる能力を持っている。村人の一部は翌朝、顔色が変わっていた。商人が店の鍵を置き忘れたり、子供が母の名を一瞬忘れたりする。小さな穴が街の記憶に開いていく。

 旅の一行は、暁晶の欠片を探す最初の目的地――風の塔を擁する街、ハドリンを目指して歩き出した。カイは父の短剣をぎゅっと握りしめ、胸に灯る黎光の感覚をたしかめながら、歩を進めた。