第十章 空輪会本拠 ― 潜伏と真実の裂け目(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  空輪会の本拠は、かつて交易で栄えた城塞都市の地下深くに潜んでいた。表向きは慈善団体や学術サークルを装い、薄い善意と言葉の饗宴で市民を引き込む。だがその根は深く、町の記録、名簿、そして人々の「選択」の履歴までを書き換えていた。

 ユイが写し取った地図は複雑だった。古い下水道網に紛れた小部屋、倉庫、偽装された礼拝所――その集合体が空輪会の「網」だ。旅団は昼間は別々に行動し、夜に合流して情報を摂取する作戦を取った。ガロは直截に力で概略を探り、ユイは文献と書類の痕跡を追い、リナは人の心の反応を見極め、トウヤは路地の噂と息をつなぎ、カイは夜明けとともに黎光の感覚で欠片の兆候を探す。

 ある夜、トウヤが酒場の小さな台に上がって口上を始めた。彼の歌は軽やかだが、細工が施されている。空輪会の連絡役を気取った者が耳を立てると、すぐに注意を引かれ、仲間たちの仕込みが作動する。背後の壁から隠し扉が開き、暗い階段が現れる。それは空輪会の地下への入り口であり、トウヤの合図で仲間は一斉に動き出した。

 地下は冷たく、蝋燭の光が薄く揺れる。壁には無数の記録が貼られ、名前と日付が改竄されている。そこかしこに「選択の推薦」という名の署名があり、押印には見覚えのある紋章――あのヴェルドの変形した印があった。ユイがそれを指でなぞると、彼女の指先にかすかな震えが走った。

「これ……ただの組織じゃない。誰かが意図的に人の“選択”を再配列している」――ユイの声はひそやかだが確信に満ちていた。「そしてその中心にヴェルドに関する“儀式”の痕跡がある」

 廊下の突き当たりに大きな部屋があり、そこには空輪会の幹部たちが集っていた。中央の祭壇には、小さな暁晶の模型と、竜の鱗の断片らしきものが置かれている。その上で、ある男が高らかに話をしていた。彼は穏やかな笑みを浮かべ、言葉を選びながら人々の心を撫でるように語っている。だが目は冷たく、まるで何かを計算している。

「我々は人々に選びを与えているのではない。選びを解放しているのだ。苦しみからの解放。それが、真の慈悲だ」――男の言葉に拍手が湧く。

 ガロは斧を構えようとしたが、リナが掴んだ。彼女の目は冷静だ。「突入はまずい。今ここで斬り合えば、人々に矛盾の種を撒く。彼らは“救済”の名の下にもっと深く浸透する」

 そこでカイが前に出た。彼は静かに光を掌に集め、その温度で空気の輪郭を確かめる。光は祭壇の模型に反応し、微かに震えた。模型の中に封じられた痕跡は、生きているかのように答えを返す。カイは口を開く。

「あなたたちは‘選択’を奪っている。それを与えるのは神の慈悲でも、社会の配慮でもない。人が自ら選ぶことを止めさせるのは、自由の死だ」

 男は微笑みを崩さず、ゆっくりと立ち上がる。やがて暴露が始まる。男の名は“修辞者”マルコス。かつては学者で、言語と政治の間で揺れ動いた者だという。彼はヴェルドの存在を「終局的な合理性」として解釈し、人々に負担を減らすための“忘却”を施すことこそが救済であると主張していた。

「虚は恐ろしいものではない。虚は空白だ。空白は可能性を孕む。選択という縛りは苦痛を生む。われわれは苦痛を取り除くために、輪郭を取り外す」

 その理念の論理性に、幹部たちは拍手を重ねる。だが、彼らが忘れているのは――輪郭を失うことが、同時に“尊厳”や“記憶”を奪うことだとリナが静かに言うと、マルコスの笑みに僅かな陰りが差した。

 騒ぎはすぐに始まった。空輪会の護衛が飛び出し、地下の石室は一瞬にして戦場になった。カイの光が祭壇の模型に走ると、その模型からかすかな叫びが漏れ出した。模型は砕け、盛り上がっていた紋章の鱗片がひとつ床に跳ねた。床を叩いた衝撃で地下の古い構造が軋み、長年押し込められていた空気が噴き出した。

 そのとき、マルコスの背後から深い咆哮が響いた。床のひび割れから、黒い影がゆっくりと立ち上がる。空輪会の幹部の顔が一瞬にして青ざめる。そこに姿を見せたのは小さな竜――だが人のような目を持ち、鱗の間に古い暁晶の欠片が埋まっている。ヴェルドの眷属か、それともヴェルド自身の一端か。マルコスは震える声で呟いた。

「我が理が、ついに……」

 竜は口を開き、静かに言った。言葉は人の言語に似ているが、そこに含まれるのは空虚と懐疑だけだった。

「我は“穴”を満たす者。人は自らの縁を嫌い、我を求める。そこに芽生えるのは安寧か、あるいは滅びか。どちらでもよい」

 その瞬間、カイは理解した――空輪会はヴェルドの“前哨”であり、マルコスのような理論家がヴェルドの思想を人々に説き、実態としての虚が着実に拡がっていたのだ。戦いは熾烈を極めたが、最後にマルコスは逃亡、空輪会の根は一部つぶれたものの、空輪会の理念は消えず、どこへでも広がれる種子となってしまった。

 地下から這い出ると、谷間の町は静かに見えた。だがトウヤは黙って遠くを見つめ、糸をそっと握り締めた。彼の指先には、かつて誰かが与えた「選択の記録」が焼きついている。自分の過去は消せない――だが今、彼は己の糸で新たな道を結うと決めた。

第九章 オルドの眠り — 夢を食う巨蟲(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  北へ向かう道中、旅団は鉱石の匂いと湿った土の香りが混じる山間の鉱都オルドへ入った。オルドは地の守環――土環を抱くところで、地下には無数の坑道と巨大な機械が眠っている。戦国のように働く鍛冶屋、黒ずくめの鉱夫、石を扱う職人たちの声が町を満たしていたが、眠気の波が街に漂っている。人々は眉間に皺を寄せ、眠ったように歩きながら何かを忘れたような表情をしている。

「ここは、夢を司るとも言われる土地」――リナの声は低い。「土環が侵されると、夢が現実と混ざり、人々の未来/過去の境が曖昧になる。そこに“夢を喰う者”が現れれば、眠りが食われ、希望が奪われる」

 坑道の入口で、彼らは奇妙な光景を目にする。大きな巣穴の前に、眠る人々が寄り合っている。彼らの顔は安らかだが、手には鋸屑のような欠片が握られている。坑道の奥から、微かな振動とともに巨大な音が伝わってきた。地鳴りのような息。やがて、闇の中から巨大な節足の影が滑り出す。全身が土で覆われ、胴には古い夢の断片――子供の玩具、古い結婚指輪、忘れられた歌の断片――が貼りついている。

 夢を食う巨蟲――その名にふさわしい怪物は、周囲の眠りを透かして生きている。触手の先が夢の断片に触れると、その断片は黒く溶け、持ち主の目が暗くなった。眠りはただの休息ではなく、記憶や希望が集まる場だった。喰われた夢は戻らない。

 坑道の中で、ガロは立ち尽くした。かつて失った仲間たちの夢や笑顔が、蟲の外殻に埋まっているのを見て、胸の中の傷が疼く。彼は一歩前に出て、斧を高く掲げた。

「お前は、夢を喰らうか。なら、俺が差し出すのは記憶だ。お前はそれを返せるか?」

 戦いは、肉体と心の両面での攻防になった。巨蟲の外殻は固く、普通の斬撃はほとんど効かない。ユイが詠唱で地盤を揺らし、坑道の支柱を崩して蟲の動きを鈍らせる。トウヤは糸で触手を縛り上げ、リナは眠る人々の夢の糸を結び直して守る。カイは掌の光を蟲の胴に向けるが、光は蟲の殻に吸い込まれてしまう。

 そこでユイがふと気づいた。蟲が貼り付けている断片は、ただの夢の残滓ではない――「名」を忘れた人々が捨ててしまった「輪郭」の欠片だ。ユイは古い詠唱を紡ぎ、坑道の中に残る“名”を一つずつ呼び戻す。すると、蟲が抱く断片の一つが光を取り戻して微かに震えた。

「夢は名と繋がっている。名がある限り、夢は返せる」――ユイの声には確信が宿っている。

 ガロは一つの断片を引き剥がし、叫んだ。「戻れ! お前らの笑顔を、返せ!」

 その叫びはただの怒声ではなく、かつての仲間への呼びかけでもあった。巨蟲は反応し、激しい振動を伴って動いた。すると、蟲の節の隙間から小さな光が溢れ、それはやがて一つの形――小さな人形のような姿へ戻り、近くの眠る女性の膝元に転がり落ちた。女性は目を開け、泣きながらそれを抱きしめた。

 しかし勝利は即効的ではない。蟲は深い傷を負いながらも、最後に一度だけ低い声を呟いたように聞こえた。

「――我は、飢えを止められぬ。虚の名は深い。暁晶の欠片が深く汚れていると、夢は一度で戻らぬ」

 それを聞いた瞬間、ユイの顔が青ざめる。彼女は写本から抜き出したメモを取り出し、そこに書かれた古い記述を読み上げた。

「暁晶の核は、単に『壊れる』のではなく、心の“穴”を反復して拡げる性質がある。欠片が深く汚されるほど、戻すための“代償”は増す。リナ、あなたに課された代償は始まりに過ぎない」

 リナは黙って頷いた。これまでに失われた記憶は小さなものだったが、これから先に待つ試練はより大きいかもしれない。ガロは蟲を見据え、拳を握る。彼の心に新たな決意が生まれていた――仲間の失ったものを、必ず取り戻すと。

 坑道を出ると、空は鉛色に曇っていた。人々の眠りは戻りつつあるが、町には静かな哀しみが漂う。ユイは新たな文献を写し取り、暁晶の核に近づく手引きを探す。トウヤは誰にも見せないように、糸の房を撫でている。それは彼にとって、守るべきものの象徴になっていった。

 だが旅団の前には、まだ多くの塔が残っている。四つの欠片のうち三つは清められつつあるが、汚れは深く、ヴェルドの狙いはますます明確だった。虚竜ヴェルドは単なる怪物ではない。彼の“虚”は、人々の選択、名、記憶――そうした輪郭を糧とし、世界をゆっくりとほどこうとしている。

 旅団は再び歩き出す。目指すは、暁晶の核へ通ずるという古の道。その道は人々の忘却と選択を試し、最後に“選び直す”決断を突きつけるだろう。カイは父の短剣を握り直し、リナは静かに祈りを捧げ、ユイは地図を折りたたむ。ガロは斧を肩に担ぎ、トウヤは糸を腕に巻いた。

 虚竜ヴェルドの影は、暗い雲のように彼らの上空を移動している。だが旅団の胸には、小さな光が灯っていた。それは消えそうで消えない、何度でも繋ぎ直せる光だった。