第六章 沈む都リュクス — 水鏡の嘘(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  道は海へと戻る。砂の国を抜け、旅団は波音の中に新たな風景を見出した。リュクス――その名は水の都を意味し、湾を囲むように層状の街が築かれている。水面に反射する建物は、まるで二重の都市を抱えているかのようだ。だが今、リュクスの水面は揺らぎ、鏡像が歪んでいる。人々の顔が水面に映ると、そこにほんのわずかな違和感が生じる――笑顔が嘘に見え、親しげな仕草が冷たく裏返る。

 港に降りると、漁師たちが互いに背を向けている。客引きは店の前で声をかけるが、誰も振り向かない。店主の目は虚ろで、言葉を聞いても反応しない。リナは小さく息を吐いた。

「水鏡――ここでは“真実の反映”が歪められる。虚は真実を捻じ曲げ、人を自らの疑念へと誘う。疑念はやがて選択の放棄になる」

 ユイは港の倉庫で見つけた古い地図を広げ、指である地点を指した。「ここに‘鏡楼(きょうろう)’とある。水面を鏡のようにする古い儀礼の場だ。そこが汚染されていると、映る真実が嘘に変わる。欠片の影響範囲が広い」

 リュクスの中心、鏡楼へ向かう道は迷路だった。水にかかる石橋の先々に、人の影がちらつく。ある石畳の上では、二人の商人が口論をしていたが、その内容は曖昧だ。カイが割って入り、両者を引き離すと、二人は一瞬戸惑い、顔から表情が消えた。言葉は途切れ、互いの名前が宙に浮く。小さな“穴”が出来ているのだ。

 鏡楼の扉は重く閉ざされていた。扉に付けられた金具には、空輪会の印がほのかに彫られている。扉を押し開けると、室内は光と水と影の混ざり合い。中央に浮かぶ大きな水盤が、鏡のように都市全体を映している。その水面が揺れるたび、遠景の人々の表情が歪む。

 やがて水面が震え、そこから一つの“像”が立ち上がった。鏡像は本物の模倣だが、端々が鋭く誇張されている。友人の像は冷たく嘲り、恋人の像は裏切りを示唆する視線を投げる。見る者の心の弱点をつつき、疑念を育てる。鏡像は言葉を発し、囁きが耳に残る。

「お前は裏切られている」
「本当にこれを守りたいのか?」
「選ぶなら楽な方だ」

 ユイは詠唱を始めるが、言葉が水面に反転して戻ってくる。反転した言葉は語感を変え、人の心に刺さる。リナが結界を張ろうとするが、結界の輪郭さえ揺らぐ。水鏡は“言葉の意味”そのものを歪めるのだ。

 混乱が広がる。親子は互いに顔を見合わせ、目的のない怒りで叫び始める。ガロは斧を掲げて振り払い、トウヤは糸で鏡像の手を捕らえようとするが、像は容易に形を変える。カイは声を上げた。

「お前たち、聞け! ここに映るのは、君たちの全部じゃない! それぞれの欠片が、真実を細断しているだけだ!」

 だがその言葉さえ、鏡は無慈悲に弄ぶ。誰かの耳に届けば届くほど、言葉のエッジが削られ、誤解が生じる。ユイは必死に古語の名付け詩を紡ぐ。彼女は鏡に向かって、ある“名”を唱え続けた。それは、過去に鏡楼で詠まれた“守りの名”だった。名を復唱するごとに、水面に浮かぶ像の輪郭が少しずつ戻ってくる。

 その時、鏡楼の中央、水盤の中からひときわ大きな影が立ち上がった。水と影でできた竜の形――だがその姿はただの獣ではない。頭部は甲羅のように分節し、胸には古い紋章が半ば溶けたように浮かんでいる。カイはその胸に、かつて見たような紋章の残像を認めた――暁晶の文様と、そして薄れていく“竜の印”。

 竜は水鏡を引き裂くように咆哮し、その声は疑念を言葉に変えて放った。

「真実は脆い。人は自らの輪郭を放す。私はそれを喰らう──ヴェルドの名を冠した者よ、我は虚竜の一端だ」

 戦いは、ここでは“声”の奪い合いになった。ユイは声を高め、古名を復唱する。リナは祈りで人々の心の線を結び直す。カイは掌の光を水面に走らせ、鏡像の輪郭を“なぞる”。不思議なことに、光が輪郭を追うたびに像の歪みが解け、鏡面の下に眠る本来の情景が露出する。

 その隙に、トウヤは鏡像の“背”へ飛びついた。糸を器用に使い、水の竜の尾を絡め取る。だがその瞬間、トウヤの眼が一瞬だけ濁った。彼の微笑は歪み、過去の一場面が彼の瞳に映る――幼い頃、誰かに裏切られたかのような痛みの記憶。トウヤは短く呻いたが、裂けた思考を振り払って糸を絞った。

 ついにユイが最後の名を唱え終えると、水竜は水面に叩きつけられ、波紋が広がった。鏡楼の水面は静まり返り、歪んだ像は消えた。だが勝利は安堵とは違う。リュクスの人々の多くが、自分たちの心に生じた“穴”を感じていた。誰かの笑顔がどこか遠くにあると感じ、互いに少しだけ距離を置く。水鏡は癒えても、裂け目は完全には塞がらない。

 カイが港で一人の老人と話したとき、老人は昔の言葉を少し忘れてしまっていた。幼い頃の恋人の名前を、ふと思い出せない。カイは黙って老人の手を取った。言葉が戻らなくとも、手の温かさは確かだ。リナは静かに呟く。

「虚は一度入ると、痕跡を残す。でも、繋ぎ直すことはできる。時間はかかるが、人は名前を取り戻せる」

 トウヤは海を見つめ、口をつぐむ。彼の胸の奥に、また別の影が蠢いている気配がある。空輪会の足取りはリュクスでも見られ、誰かが動いている。ユイは写本に新たな記録を刻み、五人の旅団は次の目的地へと舟を進めた。水鏡は割れた形を癒したが、ヴェルドの影はますます明瞭に、彼らの航路を覆っている。

第五章 砂の国セムナ — 灼熱の試練(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  セムナへ向かう道は、アークの緑から次第に砂へと変わった。風は熱く、空は白く光る。峡谷は苛烈な日差しに削られ、遠くで地響きがする度に砂塵が巻き上がる。ここには風の繊細さではなく、時間と熱が支配する。

 塔の入口に立つと、そこは巨大な砂時計のように設計されていた。砂は止まっているのではなく、逆行したり溜まったりしている。守環の“炎環”は、時間と熱の均衡を司るはずだが、今は歪み、時の流れが局所的に乱れていた。蒼白の光が砂漠の表面でひび割れて、蜃気楼のような幻が時折見える。

 入口で彼らを迎えたのは砂塵に焼けた商人と、塔の守りを手伝う小さな部隊だ。だがその目はどこか虚ろで、底にあるはずの希望が薄れている。セムナの人々は、熱と空間の狂いの前にうなだれ、選択肢を失いかけていた。

「ここで時間が狂うと、人はいつまでも過去の痛みに囚われるかもしれない」――リナが小さく言った。

 塔の内部は、歩くたびに過ぎ去った時間の断片が一瞬現れる。床に映る影が先の戦いを再演し、振り返ると自分の過去の姿がそこにいる。カイは父と並んで小船を直す昔の自分と目が合い、胸が締め付けられる。ガロは旧友と笑いあう場面がふいに現れ、刃の冷たさが甦る。過去の好機が目の前に提示されるたびに、どう対処するかで未来が変わるようだった。

 塔の核心で待ち受けていたのは、炎を纏う巨像――炎の欠片が“憤怒”の形をとった獣だった。巨像は過去の憤りや恨みを集めて成長し、噴き上がる火が塔内の時間を焦がしている。戦いは苛烈を極めた。炎がユイの詠唱を妨げ、時空の歪みが戦闘のリズムを狂わせる。

 その最中、リナが前に出て叫んだ。

「カイ、あなたはただ憤りを浄化するだけじゃない! 過去の“形”を取り戻してあげて!」

 カイは掌の光を強く握りしめ、目を閉じた。光は熱を帯び、彼に古い記憶のイメージを送る。それは憤怒に焼かれた人々の顔、癒されぬ傷跡、失われた約束だった。カイは一つずつ、その輪郭を光でなぞる。すると炎の巨像は叫び、短い断末魔と共に爆散する。砂時計の砂の流れが整い、時の逆巻きが止まる。

 だがその直後、リナの顔にひどく疲れた影が落ちる。熱は彼女に別の代償を要求していた。守護の術は彼女が自らの記憶を糧にすることで成り立っており、祈りの一つ一つが彼女の記憶の一片を削っていたのだ。塔を救った代わりに、リナは幼い頃の記憶のひとつを失った。

「なにを失ったの?」――カイの声は震えた。

「小さな花の名前。……でも、大丈夫。私はまだここにいる」リナは微笑んだが、その瞳に宿る薄い影は消えない。

 セムナでの勝利は重かった。仲間たちは一人ずつ自分たちの中の欠片を抱え、外に出た。ユイはノートに細かく観察を記し、ガロは黙って大斧の柄を拭く。トウヤはいつもの軽口を取り戻そうとするが、その声は少しだけ震えを帯びていた。

 外に出ると、砂丘の向こうに小さな影が翳っているのが見えた。それは大きく、竜の躯体を思わせる。だがヴェルドの全貌ではない。遠くから聞こえたのは、あの冷たい声ではなく、低い咆哮と共に、かすかな囁きだった。

「世界はほぐれていく。だが、そこで見えるのは“何か”だ。輪郭を失いかけた人々の中に、まだ灯る光がある。お前たちのその光を、私は確かめたい」

 虚竜ヴェルドの影は、ますます彼らに近づきつつある。暁晶の欠片はいくつか清められたが、ヴェルドの計画はそれだけで終わらない。旅団は互いを見やり、固く頷き合った。戦いは続く。だがこの先で何を失い、何を守るのか――それはまだ分からない。彼らができることは、ただ一歩ずつ前へ進むことだけだった。