第七章 ガロの夜 — 失われた盾と旧友の裏切り(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

 リュクスを出てから日が経つと、旅の疲労が人々に重くのしかかってきた。夜の焚き火の周りで、各々が黙々と自分の思いを噛みしめる。炎が跳ねるたびにガロは視線を遠くに飛ばした。いつもは無造作に置かれた斧を磨きながらも、その手は少しだけ硬く震えていた。

 ある夜、トウヤが酒の蓋を抜くと、ぽつりと尋ねた。「ガロ、昔の話、聞かせてくれよ。なんで王国を辞めたんだ?」

 ガロは斧を置き、煙草の火をじっと見つめた。彼の顔に深い影が落ちる。少し間を開けてから、低く語り始めた。

「昔、俺には相棒がいた。名はレオン。俺たちは王国の傭兵隊にいた。ある任務で、村を守るために城門を死守しろって命令が下った。だがそのとき、俺たちは命令の意味を疑った。援軍は来ない——それは分かってた。だが城は守るべきだ。俺は踏み留まった。レオンは別の選択をした。撤退を選んだんだ」

 炎が揺れる。ガロの声には苛立ちとも哀しみともつかぬ色が混じる。

「結局、俺は残った。城は落ち、多くの仲間が死んだ。レオンは逃げ延びた。後日、彼は軍の高位に取り立てられたらしい。俺は恨んだ。だがそれだけじゃねえ。ある日、俺が戻った村は静かに壊れていた。俺が守ったはずの人々は別の理屈で散っていった。俺は自分の選択の意味を疑った。守るって何だ? 失うこととどう折り合いをつける?」

 ガロは拳を握り締めた。「それから、俺は斧を置くかどうか迷った。だが、誰かが守らねえと、ただ喰われちまう。俺はそれで、ここにいる」

 夜が深くなると、焚き火の向こうでガロはそっと立ち上がって街灯の影へ消えていった。誰も追わない。彼は一人、過去の残影を辿るために歩くつもりだった。

 翌朝、彼らは小さな集落で空輪会の旗を見つけた。旗の側には、奇妙に整った墓地があり、墓石の一つに古い軍服のボタンが埋まっているのが見えた。ガロの顔色が変わる。

「そいつは……」

 ガロは一歩一歩、墓石へ近づいた。そこに刻まれた名は――レオン。ガロの心臓が早鐘のように鳴る。だが刻まれた没年月日は、彼が記憶するものとは違った。誰かがレオンを“英雄”として祭っている。それだけではない。墓石の周りに撒かれた花の中には、空輪会の紋章を象った黒い布切れが混じっていた。

 ガロは顔を歪め、拳を握りしめた。周囲の村人は目を伏せ、話題を逸らそうとする。ガロはその夜、独りで墓前に座り込んだ。月の下で、彼はレオンへ語りかけるように呟いた。

「お前はどんな選択をして、誰を救った? 誰を捨てた?」

 その時、背後で砂利が擦れる音がした。振り向くと、薄暗がりに人影がある。影は一歩出て、ガロの顔を見せた。そこに立っていたのは――レオンだった。だが目は違った。冷え切って、虚の色が乗っていた。

「お前が来るのを待っていたよ、ガロ」――レオンの声はかつての温度をなくしている。「あの夜、お前は残った。だが“残る”ということは、時に恨みを生む。俺は選んだ。自分を生かす道を。だからここにいる。だがお前は今、なにをしている? 人の思い出を繋ぐだけで、何を変えられるというのだ?」

 レオンの言葉は苛烈だった。ガロはかつての相棒の目を見て、震える声で言った。

「俺は……俺は守るって決めた。ただそれだけだ」

 レオンは静かに笑った。「守るというのは、強さだけじゃない。選択だ。人は自分の都合で他人を守ろうとする。世界は弱さを忘れない。見ろ、空輪会は“楽”を与える。人々は自分で選ばなくて済む。ヴェルドはそれを促す。俺は、その流れに乗った。そしてお前は、まだそこから離れられない」

 ガロの胸に、古い痛みと新しい怒りが同時に押し寄せる。彼は斧を抜き、かつての相棒に向かって斬りかかった。だがレオンは身をかわし、攻撃を受け流す。動きは熟練のものだった。闘いの中、レオンの動きにはためらいがなく、まるで任務を遂行する兵士のようだった。ガロは次第に、相棒がただ“逃げた”のではなく、別の道を辿って“選んだ”のだと気づく。

 斧と剣が交錯し、月光が刃を鈍く反射する。激しい一撃の後、レオンはつぶやいた。

「俺たちの選択は違うだけだ。あの夜、俺は生き残り、そして……力ある場所に身を寄せた。空輪会は、虚を利用して人を操る。だが人は、選ぶのをやめる。そいつは楽だ。誰もが楽を望む」

 ガロは怒りで言葉を紡ぐ。「それでも、お前はあの夜のことを忘れたのか? 仲間の顔、約束、笑い声。全部消えちまったのか?」

 レオンの目に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。だがそれは薄く、すぐに消えた。「忘れたわけじゃない。だが忘却は力だ。忘れることで人は前に進める。お前のやり方は、過去に縛られる。だが俺は前を見た。だからここにいる」

 闘いは終わらなかった。だがレオンは最後にガロに言い残した。

「お前は俺を許す必要はない。だがお前が守りたいものを守れ。俺はもう、そっち側にはいない」

 影は再び月に溶ける。ガロは斧を地に落とし、膝をついた。胸の中の怒りが、重苦しい喪失に変わる。彼は自分が守った「何か」が果たして正しかったのかを、再び問うた。レオンは空輪会の傘下にあるのか、それともヴェルド自身に取り込まれているのか。答えは霧の中だ。

 朝になり、旅団はガロの顔に変化を見た。彼は以前よりも静かで、しかし決意が深まっていた。かつての相棒を追うことは、ガロにとって戦いの理由を個人的なものへと変えた。彼は仲間たちに告げる。

「俺はレオンの行方を追う。真実を知るために。もし奴がここに留まるなら、俺がそれを断つ」

 仲間たちは無言で頷いた。ガロの復讐かもしれないが、彼らは理解していた――個人的な傷が、しばしば世界の裂け目を塞ぐ力になることを。トウヤは小さく笑ったが、その目は冷たく光った。

「じゃ、俺も一緒に行くよ。昔の仲間の裏切り話は、酒のいい肴になる」

 ユイは紙片に何かを書き込み、ポケットにしまった。「情報網を辿れば、空輪会の痕跡は出るはずだ。リュクスの鏡楼で見た印と一致する場所がある」

 リナはガロの肩に手を置き、静かに言った。「過去と向き合うことは痛みを伴う。でも、忘却を与える者たちに負けないで。私たちはあなたの傍にいる」

 こうして一行は、新たな目的を抱いて出発した。ガロの個人的な戦いは、やがて空輪会、そして虚竜ヴェルドの計画全体に繋がっていくことになる。レオンという旧友の背中に何が宿っているのか――それが今後の戦局を左右する鍵の一つであることを、誰もまだ知らなかった。

第六章 沈む都リュクス — 水鏡の嘘(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  道は海へと戻る。砂の国を抜け、旅団は波音の中に新たな風景を見出した。リュクス――その名は水の都を意味し、湾を囲むように層状の街が築かれている。水面に反射する建物は、まるで二重の都市を抱えているかのようだ。だが今、リュクスの水面は揺らぎ、鏡像が歪んでいる。人々の顔が水面に映ると、そこにほんのわずかな違和感が生じる――笑顔が嘘に見え、親しげな仕草が冷たく裏返る。

 港に降りると、漁師たちが互いに背を向けている。客引きは店の前で声をかけるが、誰も振り向かない。店主の目は虚ろで、言葉を聞いても反応しない。リナは小さく息を吐いた。

「水鏡――ここでは“真実の反映”が歪められる。虚は真実を捻じ曲げ、人を自らの疑念へと誘う。疑念はやがて選択の放棄になる」

 ユイは港の倉庫で見つけた古い地図を広げ、指である地点を指した。「ここに‘鏡楼(きょうろう)’とある。水面を鏡のようにする古い儀礼の場だ。そこが汚染されていると、映る真実が嘘に変わる。欠片の影響範囲が広い」

 リュクスの中心、鏡楼へ向かう道は迷路だった。水にかかる石橋の先々に、人の影がちらつく。ある石畳の上では、二人の商人が口論をしていたが、その内容は曖昧だ。カイが割って入り、両者を引き離すと、二人は一瞬戸惑い、顔から表情が消えた。言葉は途切れ、互いの名前が宙に浮く。小さな“穴”が出来ているのだ。

 鏡楼の扉は重く閉ざされていた。扉に付けられた金具には、空輪会の印がほのかに彫られている。扉を押し開けると、室内は光と水と影の混ざり合い。中央に浮かぶ大きな水盤が、鏡のように都市全体を映している。その水面が揺れるたび、遠景の人々の表情が歪む。

 やがて水面が震え、そこから一つの“像”が立ち上がった。鏡像は本物の模倣だが、端々が鋭く誇張されている。友人の像は冷たく嘲り、恋人の像は裏切りを示唆する視線を投げる。見る者の心の弱点をつつき、疑念を育てる。鏡像は言葉を発し、囁きが耳に残る。

「お前は裏切られている」
「本当にこれを守りたいのか?」
「選ぶなら楽な方だ」

 ユイは詠唱を始めるが、言葉が水面に反転して戻ってくる。反転した言葉は語感を変え、人の心に刺さる。リナが結界を張ろうとするが、結界の輪郭さえ揺らぐ。水鏡は“言葉の意味”そのものを歪めるのだ。

 混乱が広がる。親子は互いに顔を見合わせ、目的のない怒りで叫び始める。ガロは斧を掲げて振り払い、トウヤは糸で鏡像の手を捕らえようとするが、像は容易に形を変える。カイは声を上げた。

「お前たち、聞け! ここに映るのは、君たちの全部じゃない! それぞれの欠片が、真実を細断しているだけだ!」

 だがその言葉さえ、鏡は無慈悲に弄ぶ。誰かの耳に届けば届くほど、言葉のエッジが削られ、誤解が生じる。ユイは必死に古語の名付け詩を紡ぐ。彼女は鏡に向かって、ある“名”を唱え続けた。それは、過去に鏡楼で詠まれた“守りの名”だった。名を復唱するごとに、水面に浮かぶ像の輪郭が少しずつ戻ってくる。

 その時、鏡楼の中央、水盤の中からひときわ大きな影が立ち上がった。水と影でできた竜の形――だがその姿はただの獣ではない。頭部は甲羅のように分節し、胸には古い紋章が半ば溶けたように浮かんでいる。カイはその胸に、かつて見たような紋章の残像を認めた――暁晶の文様と、そして薄れていく“竜の印”。

 竜は水鏡を引き裂くように咆哮し、その声は疑念を言葉に変えて放った。

「真実は脆い。人は自らの輪郭を放す。私はそれを喰らう──ヴェルドの名を冠した者よ、我は虚竜の一端だ」

 戦いは、ここでは“声”の奪い合いになった。ユイは声を高め、古名を復唱する。リナは祈りで人々の心の線を結び直す。カイは掌の光を水面に走らせ、鏡像の輪郭を“なぞる”。不思議なことに、光が輪郭を追うたびに像の歪みが解け、鏡面の下に眠る本来の情景が露出する。

 その隙に、トウヤは鏡像の“背”へ飛びついた。糸を器用に使い、水の竜の尾を絡め取る。だがその瞬間、トウヤの眼が一瞬だけ濁った。彼の微笑は歪み、過去の一場面が彼の瞳に映る――幼い頃、誰かに裏切られたかのような痛みの記憶。トウヤは短く呻いたが、裂けた思考を振り払って糸を絞った。

 ついにユイが最後の名を唱え終えると、水竜は水面に叩きつけられ、波紋が広がった。鏡楼の水面は静まり返り、歪んだ像は消えた。だが勝利は安堵とは違う。リュクスの人々の多くが、自分たちの心に生じた“穴”を感じていた。誰かの笑顔がどこか遠くにあると感じ、互いに少しだけ距離を置く。水鏡は癒えても、裂け目は完全には塞がらない。

 カイが港で一人の老人と話したとき、老人は昔の言葉を少し忘れてしまっていた。幼い頃の恋人の名前を、ふと思い出せない。カイは黙って老人の手を取った。言葉が戻らなくとも、手の温かさは確かだ。リナは静かに呟く。

「虚は一度入ると、痕跡を残す。でも、繋ぎ直すことはできる。時間はかかるが、人は名前を取り戻せる」

 トウヤは海を見つめ、口をつぐむ。彼の胸の奥に、また別の影が蠢いている気配がある。空輪会の足取りはリュクスでも見られ、誰かが動いている。ユイは写本に新たな記録を刻み、五人の旅団は次の目的地へと舟を進めた。水鏡は割れた形を癒したが、ヴェルドの影はますます明瞭に、彼らの航路を覆っている。