第四章 学術都市アーク — 書庫と写本喰い(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  学術都市アークは、石と蔦の迷路だった。塔の尖りが空を突き、露天の書店が路地ごとに並ぶ。空気には古い紙と墨の匂いが混じっている。カイたちが城門をくぐると、通りの掲示板に「暁晶と欠片に関する写本閲覧許可」の貼り紙がされたばかりで、群衆の中には不穏な緊張が走っていた。欠片の事態が各地で報告され、学者たちも黙ってはいられないのだ。

 ユイの足取りは速い。目的地はアーク中央にそびえる地下書庫――公立とは思えぬ厳重さで、門番の詮索をかいくぐるには写本閲覧許可だけでは足りない。だがユイはすでに学術組織の小さな知り合いを頼り、薄笑みを浮かべて案内されるように地下へと足を踏み入れた。

 地下書庫の空気は冷たく、巻物や本が棚を埋め尽くす。ところどころ蝋燭の残り火が揺れ、長い年代の埃が空中に漂っていた。ユイは震える指で古い写本を取り出し、ページの隙間から古語を読み解く。写本は暁晶の結晶構造、欠片の分岐、そして「虚」の起源についての断片を示していた。

「暁晶は二層構造だ。核(コア)が中心にあり、環(リング)が四方で均衡を保っている。欠片は環の一部で、正しくはめ込まれれば回復の触媒となる。だが汚れた欠片は“共鳴”ではなく“同化”を生む――虚の芽が発生する」ユイが呟くように言った。

 すると、棚の奥から不協和音が立った。本がささやくようにズレ、影が棚の間を滑る。書庫の管理者が振り返ると、最初に見えたのはページがちぎれた古文書の端。だがその影はじょじょに形を取り、紙と糊と古い言葉を食らうように動き出した。

「写本喰い(しょほんくい)だ」――ユイの指が震えた。「古い文献に宿る‘記述された形’を栄養にする。虚に似ているが、対象は“言葉”だ」

 写本喰いは書棚の間を這い回り、触れた書物の一節が黒く腐り、字が抜け落ちていく。消えた語が空白となってページに残る。やがてその空白は自我を持ち、黒い渦となって周囲に広がろうとした。

 カイは掌の光を持ち上げた。だが今回は、ただ浄化するだけでは済まない。写本喰いは「言葉の欠落」を喰らうため、ユイの詠唱やリナの祈りを阻害しにかかる。言葉の意味が少しずつ崩れる感覚が、胸を締め付ける。

 ユイは息を整え、古語を繋ぎなおすようにして新たな詠唱を紡いだ。彼女の声は本の隙間に入り、抜け落ちた語を半ば無理やり繋げていく。リナはその瞬間に護符を展開し、ガロとトウヤが物理的に影を追い詰める。トウヤは糸を使って写本喰いの動きを封じ、ガロの斧が渦を裂いた。

 だが写本喰いは一度斬られてもすぐに復活する。古い文字の欠片が再び集まり、別の頁から湧き出してくるのだ。ユイは焦燥を抱えながら、持っていた写本の本文を嘴(くちばし)のように折り、意図的に言葉を「補修」し始めた。彼女の手は震え、汗が額を伝う。

「生きている記述を与えるの、今はこれしかない」――ユイは叫んだ。「記憶の断片を、ここで口伝として繋げる。私が声で持たせる!」

 カイはユイの言葉を受け、掌の光を言葉と共鳴させた。光がユイの声に追随すると、不思議な現象が起きた。写本喰いは光に触れると、その黒が薄れ、頁の空白に微かな輪郭が戻っていく。ユイの声が文字に「輪郭」を与えると、写本喰いの形は崩れ、やがて本の堆(うずたか)いの中へと引きずり込まれていった。

 最後の一節を詠唱したとき、地下書庫は静まりかえった。欠けていた語が完全に戻ったわけではないが、足りない部分を肉声で一時的に補い、写本喰いは力を失った。ユイは膝をつき、息を大きく吸った。

「これで数日は保てるはず……だが、このままでは根治できない」ユイは顔を上げ、仲間たちを見た。「写本喰いの出現は、暁晶の汚れと同根だ。ヴェルドが世界の輪郭を削っている。文字や名前が消えるほどに、虚は入りやすくなる」

 アークの学者たちは彼らに更なる資料と「言葉の詩式(ししき)」のレシピを与えた。古い呪文、名付けの儀礼、そして暁晶の核に近づくための古図――五人は情報を持ち、次の塔へ向かう準備を始める。だが、地下書庫で見つかった一枚の古地図の余白には、薄く書かれたある印――ヴェルドの古い紋章に酷似した小さな刻印があった。それは示唆する。

「虚竜は――完全に孤独じゃない。かつては人と竜の間に何かがあったのかもしれない」ユイは眉を寄せて言う。

 外に出ると、アークの街角に人影が消えかけていた。誰かが彼らを遠くから見ている気配があり、トウヤは背筋を走る冷たさを感じた。彼は鼻歌を止め、短く呟いた。

「空輪会の動きが増えてる。俺の耳にも、奴らが動き回ってるって情報がある。気をつけろよ」

 五人の旅団は、より多くの事を知るほどに、ヴェルドの輪郭がただ「巨大な竜」ではなく、人の心に寄生するある種の思想や選択をも含む存在であることを理解していった。彼らが次に向かうのは、砂と峡谷に抱かれた“炎環”の塔――セムナである。

第三章 虚の気配と仲間の影(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  ハドリンを後にする朝、城門の石に刻まれた空輪会の印はさらに濃くなっていた。触れたものは些細な事柄を忘れ、会話の途中で相手の名前が出てこなくなる。リナはそれを「輪郭の侵食」と呼んだ。

「虚は“線”を嫌う。名前、約束、記憶――それらが輪郭を作る。虚はそこを擦り減らして、代わりに『無』を差し出す。楽で簡単な選択を与えるのよ」

 道中、丘を越えた谷間で、羊飼いの娘が涙ながらに叫んでいた。群れが消え、弟が行方不明だという。ガロは言葉少なに前へ跳び出し、トウヤは細い糸を引き、リナは短く祈る。影は谷を満たし、そこで息をひそめている。

 カイが谷底へ駆け下りると、小さな少年が一本の棒で影と対峙していた。少年の目は恐怖の色を湛えながらも、頑なだった。影は口のない顎を開き、少年の希望を一口ずつ啜ろうとしているように見えた。

 そこへ突然、丘の縁から駆け下りてきた少女が現れる。分厚い写本を脇に抱え、息を切らせながら彼女は言った。

「待って、触らないで! 言葉を先に! 言葉で輪郭を縛れば、虚は弱る!」

 彼女の名はユイ。学術都市アークからの魔導士見習いで、古語と写本を愛する少女だ。彼女は本を開き、古い言葉を詠唱する。草の露が宙に舞い、細く織られた網のように影の周囲を縛る。網は影の動きを鈍らせ、カイはその隙に黎光を差し込む。

 影が裂けると、群れの羊は怯えながらも戻ってくる。少年は姉に抱きつき、泣きじゃくる。ユイは本を抱き締め、軽く鼻をすする。

「言葉は定義する道具よ。存在に名前を与えると、虚は入れない。欠片に関する文献がアークにあれば、我々はもっと効果的に欠片を扱える」

 ユイはそう告げ、旅団は自然と彼女を仲間に迎えた。五人目、学術と理論の力が加わることで、彼らの戦い方はより多面的になった。

 旅の夜、焚き火の周りでそれぞれが自分の過去を少しずつ語る。ガロはかつて守れなかった仲間の顔を、火の揺らぎの中だけに留めようとし、トウヤは孤独を笑いに変えることで自分を守ってきたことを匂わせる。リナは祈りと代償の話を、ユイは写本にまつわる逸話を淡々と語る。カイは父の短剣を膝に置き、黎光の意味を問い続ける。

 だが夜の風に乗って、低く遠い声がまた聞こえる。それは塔の中で聞いた声と同じ、冷たく嘲るような響きだった。

「いいぞ、いいぞ。輪郭というものがいかに脆いか、教えてやろう。暁晶を喰らい、世界をほどいてやる」

 その囁きに、旅団は小さな寒気を覚える。虚竜ヴェルドは遠くにいるだけではない。欠片のひとつひとつを通じて、少しずつ世界に爪痕を残している。彼らは知る――この先に待つ試練が、ただの怪物退治ではなく、人々の信頼や記憶、選択そのものを賭けた戦いであることを。

 村々の記憶が少しずつ薄れる中で、旅団の絆は逆に強まっていった。忘却に抗うために、彼らは互いの名を確かめ合い、約束を交わす。それは小さな抵抗であり、黎光の最小単位でもあった。