第三章 虚の気配と仲間の影(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  ハドリンを後にする朝、城門の石に刻まれた空輪会の印はさらに濃くなっていた。触れたものは些細な事柄を忘れ、会話の途中で相手の名前が出てこなくなる。リナはそれを「輪郭の侵食」と呼んだ。

「虚は“線”を嫌う。名前、約束、記憶――それらが輪郭を作る。虚はそこを擦り減らして、代わりに『無』を差し出す。楽で簡単な選択を与えるのよ」

 道中、丘を越えた谷間で、羊飼いの娘が涙ながらに叫んでいた。群れが消え、弟が行方不明だという。ガロは言葉少なに前へ跳び出し、トウヤは細い糸を引き、リナは短く祈る。影は谷を満たし、そこで息をひそめている。

 カイが谷底へ駆け下りると、小さな少年が一本の棒で影と対峙していた。少年の目は恐怖の色を湛えながらも、頑なだった。影は口のない顎を開き、少年の希望を一口ずつ啜ろうとしているように見えた。

 そこへ突然、丘の縁から駆け下りてきた少女が現れる。分厚い写本を脇に抱え、息を切らせながら彼女は言った。

「待って、触らないで! 言葉を先に! 言葉で輪郭を縛れば、虚は弱る!」

 彼女の名はユイ。学術都市アークからの魔導士見習いで、古語と写本を愛する少女だ。彼女は本を開き、古い言葉を詠唱する。草の露が宙に舞い、細く織られた網のように影の周囲を縛る。網は影の動きを鈍らせ、カイはその隙に黎光を差し込む。

 影が裂けると、群れの羊は怯えながらも戻ってくる。少年は姉に抱きつき、泣きじゃくる。ユイは本を抱き締め、軽く鼻をすする。

「言葉は定義する道具よ。存在に名前を与えると、虚は入れない。欠片に関する文献がアークにあれば、我々はもっと効果的に欠片を扱える」

 ユイはそう告げ、旅団は自然と彼女を仲間に迎えた。五人目、学術と理論の力が加わることで、彼らの戦い方はより多面的になった。

 旅の夜、焚き火の周りでそれぞれが自分の過去を少しずつ語る。ガロはかつて守れなかった仲間の顔を、火の揺らぎの中だけに留めようとし、トウヤは孤独を笑いに変えることで自分を守ってきたことを匂わせる。リナは祈りと代償の話を、ユイは写本にまつわる逸話を淡々と語る。カイは父の短剣を膝に置き、黎光の意味を問い続ける。

 だが夜の風に乗って、低く遠い声がまた聞こえる。それは塔の中で聞いた声と同じ、冷たく嘲るような響きだった。

「いいぞ、いいぞ。輪郭というものがいかに脆いか、教えてやろう。暁晶を喰らい、世界をほどいてやる」

 その囁きに、旅団は小さな寒気を覚える。虚竜ヴェルドは遠くにいるだけではない。欠片のひとつひとつを通じて、少しずつ世界に爪痕を残している。彼らは知る――この先に待つ試練が、ただの怪物退治ではなく、人々の信頼や記憶、選択そのものを賭けた戦いであることを。

 村々の記憶が少しずつ薄れる中で、旅団の絆は逆に強まっていった。忘却に抗うために、彼らは互いの名を確かめ合い、約束を交わす。それは小さな抵抗であり、黎光の最小単位でもあった。

第二章 ハドリンの風と塔の瘡(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

 門をくぐると、ハドリンの風は明確に違った。塔の風は街に柔らかな流れを作り、埃も香りも均され、どこか安寧を与えていた。しかし、その日、塔の周りはどんよりと重く、広場の旗は垂れ下がり、屋台の布はぬめりを帯びていた。塔の壁には黒い瘡(かさ)のような斑点が広がり、風は淀んでいた。

 塔の麓で彼らを迎えたのは、鎧を身にまとった大男だった。灰色の鬚に深い皺。名はガロ。かつては王国軍の斧兵で、今は街の臨時防衛を仕切っている。彼は警戒心の強さと同時に、どこか守ることに誇りを持つ男だ。

「塔に入るなら覚悟を決めろ。中の風は、ただの風じゃねえ」

 だが、欠片は塔の中心に埋まり、その瘡が塔の魔力を歪めている。リナは静かに欠片の状態を見極める。

「欠片が不安定です。ヴェルドの“虚”が混じっている。単に奪うのではなく、欠片を媒体にして瘡を育てる。瘡は塔の機能を蝕み、風の輪郭を曖昧にする」

 階段を登ると、最初に襲いかかったのは影の群だった。風を纏った黒い鳥のような影が群れ、飛び交う。ガロの斧が重く振られ、枝のように裂かれた影が粉のように消える。トウヤは糸を張り巡らせて影を絡め取り、リナが結界を張り、カイが掌の光で影を浄化する。

 戦いが続く中、カイは自分の力が「浄化」だけでなく「輪郭をとりもどす」性質を持っていることに気づく。掌の光は単に影を溶かすだけでなく、かつてそこにあった形を一瞬だけ取り戻す。欠片の表面に浮かぶ模様が、光によって一瞬鮮やかになり、そのとき塔の風が整う。

 最上層、欠片が据えられた回転盤の前。瘡がその欠片を覆い、脈動するように広がっている。そこから生まれたのは“風の精”と呼ばれるはずのものが歪んだ姿だった。槍のような影の突起が、守りをねじ曲げた形で襲いかかる。

 ガロが槍を受け、トウヤが攻撃の軌道を操り、リナが守りを厚くする。カイは一歩踏み込んで欠片に触れた。瘡の粘膜が指に絡みつき、痛みが走る。しかしその痛みは、彼の内側から何かを呼び覚ました。黎光はただの光ではなく、「記憶と形を取り戻す力」であると、ふっと確信する。

 掌から金色の光輪が弾け、瘡が裂ける。欠片はかすかな呻きとともに澄んだ光を取り戻し、塔の風が戻る。だが、塔の奥底から低く、冷たい声が響いた。風に混じって、嘲るような音色が四人に落ちる。

「よくやった、黎光の担い手よ。だが、それは序章に過ぎぬ。我はヴェルド、虚の竜。暁の光を喰らわせ、世界の輪郭をほどいてやる」

 声は塔を震わせ、残響となって消えた。カイの胸に冷たいものが落ちる。リナは指先で短く印を結んだ。

「ヴェルド……名を聞いただけで、瓦解の気配がする。だが塔は守られた。これで四つの欠片のうち一つは清められたはずだ」

 ガロは肩越しに見下ろして笑う。「いいぜ。俺はこういうでかい相手、嫌いじゃねえ。お前らの背中は任せとけよ」

 だが塔を出ると、町の表情が少し変わっている。人々の間に小さな溝が生まれ、互いの目がそらされることが増えている。空輪会の印が街角で目立ち、そこに触れた者の表情がどこか遠くなる。ヴェルドの影は、塔の外にも広がっているのだ。