暁晶の古道を進むうち、旅団は小さな村々に出会った。どこもかしこも、空輪会の溜め込んだ“無意識の選択”の痕跡が残る。ある村では、親子の会話が途切れ途切れになり、別の村では家々の屋根に不自然な印が刻まれていた。ユイは写本を広げ、そこに書かれた「名付けの儀式」を念入りに読み上げる。
「名付けの儀式は、ただの形式ではない。名を共同で唱え、言葉にして繰り返すことで、その人の輪郭が共同体の中で再編される。その輪郭こそが、虚を近寄らせない壁になる」
リナは村の長老と相談し、古い祭壇を復元する手伝いを始める。村人たちは最初は戸惑うが、やがて昔習った旋律や古い呼び名を口に出すようになる。ユイが古語を紡ぎ、ガロが昔話を語り、トウヤが軽妙な囃子を入れる。カイは中心で光を手放し、村人たちの手のひらを一つずつなぞるように光を走らせる。光は争わず、ただ輪郭をなぞることに集中した。
すると驚くべきことに、記憶の欠片がぽつりぽつりと戻り始めた。小さな子供が母の古い歌を思い出し、老婆が昔の戦友の名をふっと口にする。村人たちの顔に、忘却の膜が剥がれるように少しずつ表情が戻った。
この成功は小さな希望だった。ユイは写本にその成功の手順を詳細に書き留め、次の村へと旅団を導く。だが、道中、彼らの行く手にはより厳しい試練が立ちはだかる。ヴェルドの影はより強く、人々の心はより深く浸蝕されている。ある町では、名付け儀式の最中に巨大な影が襲い、儀式の輪が崩しかける。カイは必死に光で輪郭を守り、リナは自らの記憶を一節分差し出して結界を強化する。差し出した代償は小さく見えたが、リナの表情には確かな痛みが刻まれた。
儀式が成功するたび、ユイの顔に疲労が滲む。彼女は新たな真理を見つけてしまった――名を取り戻す行為は、人々に「選ぶ力」を返すと同時に、過去の痛みや責任も戻す。多くの者は楽な方を選んできたのだから、その代価は時に重い。ユイは写本に小さく注を入れる。
「輪郭の再生は義務でもあり、選択そのものの再起だ。誰もがそれを背負う準備があるわけではない」
旅団が古道の中腹でひとつの大きな選択を迫られる。先へ進めば、暁晶の核へ至る“門”があるという一帯だ。だが門の前には、かつて暁晶を守った竜の一族の末裔――朽ちかけた竜の守り手たちが、眠りの中で最後の儀式を続けていた。起こされれば、彼らは怒りを露わにする。起こさなければ、核への道は閉ざされたままだ。
議論は長引いた。ガロは直接に進むべきだと言い、ユイは慎重論を述べ、リナは儀礼の道を唱える。トウヤは黙って糸を撚り、カイは短剣を抱えたまま黙想する。最後にカイが口を開いた。
「俺たちのやってきたことは、力で片づけるだけじゃなかった。失われたものを、誰かと共に取り戻すための道だ。だから、儀式で彼らを起こして、話をしよう。たとえ怒りが返ってきても、話をすることがまず必要だ」
リナは目を閉じ、長い祈りを捧げる。やがて火が灯され、古い旋律が森に流れる。竜の守り手たちの瞼がゆっくりと開き、古びた嗄れ声で問いかける。
「誰が我を起こした。誰が名を呼ぶのか」
ユイは震えながら写本を掲げ、暁晶の古詩を詠唱する。言葉はぶつ切れであるが、徐々に竜たちの瞳に光を取り戻させる。竜たちは一つ一つ、過去の盟いの名を語り、そこにある痛みと誇りを吐露した。会話は長く、激しかった。竜たちは忘却されたことへの怨嗟をぶつけ、旅団は謝罪と説明を重ねた。
その対話の末、竜の一頭が重々しく首を下げた。彼は自身の鱗を一枚剥ぎ取り、旅団に手渡した。鱗には古い暁晶の欠片が埋まり、鱗自体が「再生」の符号を強める媒体だった。
「暁の盟いは破れたが、我らの鱗はまだ残る。我らは貴様ら人の選択を見たい。この鱗を持つ者に、核への門は開かれよう」――竜の声は深く、森を震わせた。
だが同時に竜は告げる。再生のためには「集団の選択」が必要だと。単独の英雄譚ではなく、各地で行われる名付けと記憶の儀式が、暁晶の核を真に復元する鍵なのだと。旅団はこれを重く受け止める。彼らの旅は、もはや自分たちだけの戦いではなく、世界を巻き込む共同作業となる。