第十二章 古道の試練 ― 繋ぎ直す儀式(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  暁晶の古道を進むうち、旅団は小さな村々に出会った。どこもかしこも、空輪会の溜め込んだ“無意識の選択”の痕跡が残る。ある村では、親子の会話が途切れ途切れになり、別の村では家々の屋根に不自然な印が刻まれていた。ユイは写本を広げ、そこに書かれた「名付けの儀式」を念入りに読み上げる。

「名付けの儀式は、ただの形式ではない。名を共同で唱え、言葉にして繰り返すことで、その人の輪郭が共同体の中で再編される。その輪郭こそが、虚を近寄らせない壁になる」

 リナは村の長老と相談し、古い祭壇を復元する手伝いを始める。村人たちは最初は戸惑うが、やがて昔習った旋律や古い呼び名を口に出すようになる。ユイが古語を紡ぎ、ガロが昔話を語り、トウヤが軽妙な囃子を入れる。カイは中心で光を手放し、村人たちの手のひらを一つずつなぞるように光を走らせる。光は争わず、ただ輪郭をなぞることに集中した。

 すると驚くべきことに、記憶の欠片がぽつりぽつりと戻り始めた。小さな子供が母の古い歌を思い出し、老婆が昔の戦友の名をふっと口にする。村人たちの顔に、忘却の膜が剥がれるように少しずつ表情が戻った。

 この成功は小さな希望だった。ユイは写本にその成功の手順を詳細に書き留め、次の村へと旅団を導く。だが、道中、彼らの行く手にはより厳しい試練が立ちはだかる。ヴェルドの影はより強く、人々の心はより深く浸蝕されている。ある町では、名付け儀式の最中に巨大な影が襲い、儀式の輪が崩しかける。カイは必死に光で輪郭を守り、リナは自らの記憶を一節分差し出して結界を強化する。差し出した代償は小さく見えたが、リナの表情には確かな痛みが刻まれた。

 儀式が成功するたび、ユイの顔に疲労が滲む。彼女は新たな真理を見つけてしまった――名を取り戻す行為は、人々に「選ぶ力」を返すと同時に、過去の痛みや責任も戻す。多くの者は楽な方を選んできたのだから、その代価は時に重い。ユイは写本に小さく注を入れる。

「輪郭の再生は義務でもあり、選択そのものの再起だ。誰もがそれを背負う準備があるわけではない」

 旅団が古道の中腹でひとつの大きな選択を迫られる。先へ進めば、暁晶の核へ至る“門”があるという一帯だ。だが門の前には、かつて暁晶を守った竜の一族の末裔――朽ちかけた竜の守り手たちが、眠りの中で最後の儀式を続けていた。起こされれば、彼らは怒りを露わにする。起こさなければ、核への道は閉ざされたままだ。

 議論は長引いた。ガロは直接に進むべきだと言い、ユイは慎重論を述べ、リナは儀礼の道を唱える。トウヤは黙って糸を撚り、カイは短剣を抱えたまま黙想する。最後にカイが口を開いた。

「俺たちのやってきたことは、力で片づけるだけじゃなかった。失われたものを、誰かと共に取り戻すための道だ。だから、儀式で彼らを起こして、話をしよう。たとえ怒りが返ってきても、話をすることがまず必要だ」

 リナは目を閉じ、長い祈りを捧げる。やがて火が灯され、古い旋律が森に流れる。竜の守り手たちの瞼がゆっくりと開き、古びた嗄れ声で問いかける。

「誰が我を起こした。誰が名を呼ぶのか」

 ユイは震えながら写本を掲げ、暁晶の古詩を詠唱する。言葉はぶつ切れであるが、徐々に竜たちの瞳に光を取り戻させる。竜たちは一つ一つ、過去の盟いの名を語り、そこにある痛みと誇りを吐露した。会話は長く、激しかった。竜たちは忘却されたことへの怨嗟をぶつけ、旅団は謝罪と説明を重ねた。

 その対話の末、竜の一頭が重々しく首を下げた。彼は自身の鱗を一枚剥ぎ取り、旅団に手渡した。鱗には古い暁晶の欠片が埋まり、鱗自体が「再生」の符号を強める媒体だった。

「暁の盟いは破れたが、我らの鱗はまだ残る。我らは貴様ら人の選択を見たい。この鱗を持つ者に、核への門は開かれよう」――竜の声は深く、森を震わせた。

 だが同時に竜は告げる。再生のためには「集団の選択」が必要だと。単独の英雄譚ではなく、各地で行われる名付けと記憶の儀式が、暁晶の核を真に復元する鍵なのだと。旅団はこれを重く受け止める。彼らの旅は、もはや自分たちだけの戦いではなく、世界を巻き込む共同作業となる。

第十一章 暁晶の欠片 ― 真の姿(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  空輪会の本拠を抜け、旅団は地図に導かれ古い巡礼路を進む。ユイの写本では、その路は「暁晶の古道」と呼ばれていた。道の両脇には石碑が並び、そこにはかつて暁晶を守護した竜たちの名が刻まれている。だが多くの文字は削り取られ、輪郭だけが残っていた。消えかけた名のセリフは、人々の記憶さえ相対化していた。

 ユイは写本を開き、そこに描かれた図を追う。「暁晶は、かつて竜と人が守り合った遺産だ。竜は結晶の一部を鱗に宿し、守り手として生きていた。だが、ある時点で人は‘効率’と‘忘却’を求め、竜を遠ざけた。ヴェルドはその隙間に居座った存在だと書かれている」

 旅団が辿り着いたのは、深い森の淵に崩れかけた祠だった。祠の奥に、小さな水盤と古びた石像。像は竜を模しているが、顔の半分が欠け、片目は石の剥離で消えている。そこにかつて竜が祈りを受けた痕跡が残り、石板には一節の古詩が刻まれていた。

 カイは掌の光を祠に差し込み、その光で石板の隙間に残る文字をなぞった。すると、微かに震えるように石像の一部が浮き上がり、そこに刻まれた古い映像が光の中に蘇る。映像は過去の記憶のようで、そこには一人の竜が人々に寄り添い、季節の巡りを助ける様があった。竜はやさしく、時に厳しく人の営みを守っている。

 だが映像の後半、竜の表情が歪む。人々が竜を遠ざけ、竜の守りを忘れた日々。竜の瞳に落ちるのは、孤独という名の亀裂である。その亀裂がやがて「虚」を生み、竜は自らの核(コア)を守るため、或いは恨みのために変質していった——少なくとも、写本はそう暗示していた。

 ユイは息を呑む。「ヴェルドは完全な悪ではない。むしろ、忘れられた竜の“歪んだ帰結”かもしれない。守られなかった者の代償が、虚として世界に牙を向けているのでは」

 リナは祈りを捧げ、石像の欠けた目に手を当てる。掌が触れた瞬間、彼女の額にひとつの記憶が浮かんだ――幼い頃、祖母が語った竜の唄。その唄は人と竜の盟いを祝うものであり、世界の輪郭を織る言葉だった。リナは静かに歌を口ずさむと、その小さな旋律が森に拡がり、葉の一枚がそっと震えた。

 その夜、旅団は焚き火を囲み、竜のことを話し合った。ヴェルドが怨嗟から生まれたのか、あるいは人の忘却が創り出した存在なのか。どちらにせよ、彼らが対峙するのは「ただ倒すべき敵」ではなく、「鈍った世界の痛み」の具現だった。

 ユイは新たな仮説を口にする。「暁晶の核を再結合するだけでは足りない。核は物理的な結合と同時に“輪郭の再生”を必要とする。つまり人々の名、記憶、選択が回復されることが条件だ。もし我々が欠片をただ清めるだけなら、暫定的な回復にしかならない」

 カイは短剣を膝に置き、焚き火の炎に目を落とす。「じゃあ、どうする? 人々に忘却の痛みを思い出させるのか?」

 リナは穏やかに答えた。「思い出させるのではなく、再び『選ぶ機会』を作るのです。人が自らの輪郭を取り戻すための場を。名を与える儀式、記憶を刻む祭。暁晶の核は、そのとき本当に回復するはずです」

 旅団の目の前に、これまでの戦いの意味が新たな層を持って重くのしかかる。物理的な戦闘だけでなく、文化的で精神的な回復が必要なのだ。ヴェルドが虚を広げるほど、その穴は深く、回復のための努力は大きくなる。

 翌朝、カイは父の短剣を撫で、小さく誓った。「俺たちは、ただの武器でない何かを取り戻す。人の名前と選択を守るんだ」