第十三章 門の開通 — 皆で紡ぐ名の列(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  森の竜の鱗を携え、旅団は暁晶の古道の最奥にあるという「核の門」へ向かった。地図に記された座標に着くと、そこには巨大な石の環が埋まっていた。環の中央には古の文字が並び、長年の風化でかろうじて輪郭が残っているだけだった。鱗を環の窪みに置くと、微かな振動が走り、石の目がかすかに光を取り戻す。

 だが門は完全には開かない。文字の欠けた部分、削り取られた名が多くを阻んでいた。ユイは写本を開き、詠唱を始める。だが必要なのは一人の声だけではない。リナの言葉を借りて、門の前で「名の列」を作ることになった。村々で行った名付けの小さな儀式を、今度は大きな輪として門に捧げるのだ。

 旅団は呼びかけを始めた。彼らが訪れた村、助けた者、名を取り戻した人々――それらに声を繋ぎ、連絡網を作り、門の前に人々の列ができた。子供が母の名を高らかに呼び、老人が昔の友の名を忘れず繰り返し、恋人たちが互いの名前を祝う。名前は短いが強い。輪郭を取り戻す行為は、かつて想像した以上に激しい力を持っていた。

 石環は一点ずつ石の隙間に光を取り戻し、やがて中央の凹みが震え、古い文字が光る。門の縁に刻まれた最後の字が現れると、門はゆっくりと開いた。そこには薄い霧のような空洞があり、向こう側に淡い光が漏れている――暁晶の核への通路だ。

 しかし歓喜も束の間、空洞の闇の中から遠く低い咆哮が響いた。虚竜ヴェルドは、その名を知られた瞬間、核への扉を阻もうと姿を現す。空洞の淵から垂れ下がる影がうねり、やがて巨大な胴体が露出する。鱗は深く黒ずみ、瞳は空虚でありながらも知恵を宿している。

「我が名を呼ぶ者が増える。興味深い。だが輪郭が戻るということは、同時に痛みも戻る」――ヴェルドの声は地鳴りのごとく響く。「選べる自由を与えるそのやり方は、或いは我が望んだ道とも近い。だがなるほど、面白い。見てみよう、人が自らを選び直す様を」

 ヴェルドは口を開き、空洞の中にある暁晶の核に触れようとした。だがその前に、リナが前へ出た。彼女は既にいくつもの代償を支払ってきた。今、自らの手のひらを差し出して祈る。

「私たちは忘れることを選ばない。痛みも含めて、私たちの輪郭だ。奪われることは許せない」

 叫びが群衆を裂き、名の列はさらに大きくなった。ユイは詠唱を重ね、カイは掌の黎光を全力で放った。光と言葉が同時に核へ走ると、空洞の中で小さな閃光が広がり、ヴェルドの胴体に亀裂が生じた。だがそれは一瞬の驚きに過ぎなかった。ヴェルドは更に巨大な力を見せ、空洞の風が暴風となって人々を押し戻す。

 戦いは肉体と精神の両面で続いた。ヴェルドの触手は群衆の心に疑念を植え付けようと囁く。だが名の列は揺らがない。人々は声を重ね、かつての記憶を互いに呼び戻し合う。その声が合わさると、暁晶の核は震え、閃光が増していった。

 最高潮で、ヴェルドは最後の猛攻を仕掛ける。彼は核に手を伸ばし、虚の洪流を門を通して世界へ放とうとした。しかしカイがその手に飛び込み、黎光の刃を突き立てる。光と虚の衝突は爆発的で、周囲の空気が裂ける。カイの体は衝撃に晒され、彼は倒れ込む。掌の光は強く輝き、核はその輝きに応える。

 だが同時にリナはある決断をした。彼女はこれ以上、仲間や人々が繰り返し代償を負わないよう、ある一節を捧げる覚悟をした。大声で祈り、古い歌の一節を完全に捧げると、彼女の中の一つの記憶が淡く消えた。彼女はその喪失に微笑みながらも、確かな静けさを得る。

「これで、私は背負える」と、彼女は囁いて倒れる。

 人々は叫び、カイはリナを抱き起こした。リナの眼には一片の空白が出来ていたが、その口元は安らかだった。ユイは急いで文献を調べ、リナに新しい記名を授ける儀を行った。村人たちもまた、互いに名を確認しながら、しばしの静寂を保った。

 疲弊の中、核はゆっくりと回復の兆しを見せる。ヴェルドの姿はひるみ、巨大な身体は一度後退した。だが彼はすぐに再び立ち上がり、呟くように言った。

「なるほど……君らは選ぶことを選んだ。次は……我が核の、真の核心へ来るがよい」

第十二章 古道の試練 ― 繋ぎ直す儀式(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  暁晶の古道を進むうち、旅団は小さな村々に出会った。どこもかしこも、空輪会の溜め込んだ“無意識の選択”の痕跡が残る。ある村では、親子の会話が途切れ途切れになり、別の村では家々の屋根に不自然な印が刻まれていた。ユイは写本を広げ、そこに書かれた「名付けの儀式」を念入りに読み上げる。

「名付けの儀式は、ただの形式ではない。名を共同で唱え、言葉にして繰り返すことで、その人の輪郭が共同体の中で再編される。その輪郭こそが、虚を近寄らせない壁になる」

 リナは村の長老と相談し、古い祭壇を復元する手伝いを始める。村人たちは最初は戸惑うが、やがて昔習った旋律や古い呼び名を口に出すようになる。ユイが古語を紡ぎ、ガロが昔話を語り、トウヤが軽妙な囃子を入れる。カイは中心で光を手放し、村人たちの手のひらを一つずつなぞるように光を走らせる。光は争わず、ただ輪郭をなぞることに集中した。

 すると驚くべきことに、記憶の欠片がぽつりぽつりと戻り始めた。小さな子供が母の古い歌を思い出し、老婆が昔の戦友の名をふっと口にする。村人たちの顔に、忘却の膜が剥がれるように少しずつ表情が戻った。

 この成功は小さな希望だった。ユイは写本にその成功の手順を詳細に書き留め、次の村へと旅団を導く。だが、道中、彼らの行く手にはより厳しい試練が立ちはだかる。ヴェルドの影はより強く、人々の心はより深く浸蝕されている。ある町では、名付け儀式の最中に巨大な影が襲い、儀式の輪が崩しかける。カイは必死に光で輪郭を守り、リナは自らの記憶を一節分差し出して結界を強化する。差し出した代償は小さく見えたが、リナの表情には確かな痛みが刻まれた。

 儀式が成功するたび、ユイの顔に疲労が滲む。彼女は新たな真理を見つけてしまった――名を取り戻す行為は、人々に「選ぶ力」を返すと同時に、過去の痛みや責任も戻す。多くの者は楽な方を選んできたのだから、その代価は時に重い。ユイは写本に小さく注を入れる。

「輪郭の再生は義務でもあり、選択そのものの再起だ。誰もがそれを背負う準備があるわけではない」

 旅団が古道の中腹でひとつの大きな選択を迫られる。先へ進めば、暁晶の核へ至る“門”があるという一帯だ。だが門の前には、かつて暁晶を守った竜の一族の末裔――朽ちかけた竜の守り手たちが、眠りの中で最後の儀式を続けていた。起こされれば、彼らは怒りを露わにする。起こさなければ、核への道は閉ざされたままだ。

 議論は長引いた。ガロは直接に進むべきだと言い、ユイは慎重論を述べ、リナは儀礼の道を唱える。トウヤは黙って糸を撚り、カイは短剣を抱えたまま黙想する。最後にカイが口を開いた。

「俺たちのやってきたことは、力で片づけるだけじゃなかった。失われたものを、誰かと共に取り戻すための道だ。だから、儀式で彼らを起こして、話をしよう。たとえ怒りが返ってきても、話をすることがまず必要だ」

 リナは目を閉じ、長い祈りを捧げる。やがて火が灯され、古い旋律が森に流れる。竜の守り手たちの瞼がゆっくりと開き、古びた嗄れ声で問いかける。

「誰が我を起こした。誰が名を呼ぶのか」

 ユイは震えながら写本を掲げ、暁晶の古詩を詠唱する。言葉はぶつ切れであるが、徐々に竜たちの瞳に光を取り戻させる。竜たちは一つ一つ、過去の盟いの名を語り、そこにある痛みと誇りを吐露した。会話は長く、激しかった。竜たちは忘却されたことへの怨嗟をぶつけ、旅団は謝罪と説明を重ねた。

 その対話の末、竜の一頭が重々しく首を下げた。彼は自身の鱗を一枚剥ぎ取り、旅団に手渡した。鱗には古い暁晶の欠片が埋まり、鱗自体が「再生」の符号を強める媒体だった。

「暁の盟いは破れたが、我らの鱗はまだ残る。我らは貴様ら人の選択を見たい。この鱗を持つ者に、核への門は開かれよう」――竜の声は深く、森を震わせた。

 だが同時に竜は告げる。再生のためには「集団の選択」が必要だと。単独の英雄譚ではなく、各地で行われる名付けと記憶の儀式が、暁晶の核を真に復元する鍵なのだと。旅団はこれを重く受け止める。彼らの旅は、もはや自分たちだけの戦いではなく、世界を巻き込む共同作業となる。