リュクスを出てから日が経つと、旅の疲労が人々に重くのしかかってきた。夜の焚き火の周りで、各々が黙々と自分の思いを噛みしめる。炎が跳ねるたびにガロは視線を遠くに飛ばした。いつもは無造作に置かれた斧を磨きながらも、その手は少しだけ硬く震えていた。
ある夜、トウヤが酒の蓋を抜くと、ぽつりと尋ねた。「ガロ、昔の話、聞かせてくれよ。なんで王国を辞めたんだ?」
ガロは斧を置き、煙草の火をじっと見つめた。彼の顔に深い影が落ちる。少し間を開けてから、低く語り始めた。
「昔、俺には相棒がいた。名はレオン。俺たちは王国の傭兵隊にいた。ある任務で、村を守るために城門を死守しろって命令が下った。だがそのとき、俺たちは命令の意味を疑った。援軍は来ない——それは分かってた。だが城は守るべきだ。俺は踏み留まった。レオンは別の選択をした。撤退を選んだんだ」
炎が揺れる。ガロの声には苛立ちとも哀しみともつかぬ色が混じる。
「結局、俺は残った。城は落ち、多くの仲間が死んだ。レオンは逃げ延びた。後日、彼は軍の高位に取り立てられたらしい。俺は恨んだ。だがそれだけじゃねえ。ある日、俺が戻った村は静かに壊れていた。俺が守ったはずの人々は別の理屈で散っていった。俺は自分の選択の意味を疑った。守るって何だ? 失うこととどう折り合いをつける?」
ガロは拳を握り締めた。「それから、俺は斧を置くかどうか迷った。だが、誰かが守らねえと、ただ喰われちまう。俺はそれで、ここにいる」
夜が深くなると、焚き火の向こうでガロはそっと立ち上がって街灯の影へ消えていった。誰も追わない。彼は一人、過去の残影を辿るために歩くつもりだった。
翌朝、彼らは小さな集落で空輪会の旗を見つけた。旗の側には、奇妙に整った墓地があり、墓石の一つに古い軍服のボタンが埋まっているのが見えた。ガロの顔色が変わる。
「そいつは……」
ガロは一歩一歩、墓石へ近づいた。そこに刻まれた名は――レオン。ガロの心臓が早鐘のように鳴る。だが刻まれた没年月日は、彼が記憶するものとは違った。誰かがレオンを“英雄”として祭っている。それだけではない。墓石の周りに撒かれた花の中には、空輪会の紋章を象った黒い布切れが混じっていた。
ガロは顔を歪め、拳を握りしめた。周囲の村人は目を伏せ、話題を逸らそうとする。ガロはその夜、独りで墓前に座り込んだ。月の下で、彼はレオンへ語りかけるように呟いた。
「お前はどんな選択をして、誰を救った? 誰を捨てた?」
その時、背後で砂利が擦れる音がした。振り向くと、薄暗がりに人影がある。影は一歩出て、ガロの顔を見せた。そこに立っていたのは――レオンだった。だが目は違った。冷え切って、虚の色が乗っていた。
「お前が来るのを待っていたよ、ガロ」――レオンの声はかつての温度をなくしている。「あの夜、お前は残った。だが“残る”ということは、時に恨みを生む。俺は選んだ。自分を生かす道を。だからここにいる。だがお前は今、なにをしている? 人の思い出を繋ぐだけで、何を変えられるというのだ?」
レオンの言葉は苛烈だった。ガロはかつての相棒の目を見て、震える声で言った。
「俺は……俺は守るって決めた。ただそれだけだ」
レオンは静かに笑った。「守るというのは、強さだけじゃない。選択だ。人は自分の都合で他人を守ろうとする。世界は弱さを忘れない。見ろ、空輪会は“楽”を与える。人々は自分で選ばなくて済む。ヴェルドはそれを促す。俺は、その流れに乗った。そしてお前は、まだそこから離れられない」
ガロの胸に、古い痛みと新しい怒りが同時に押し寄せる。彼は斧を抜き、かつての相棒に向かって斬りかかった。だがレオンは身をかわし、攻撃を受け流す。動きは熟練のものだった。闘いの中、レオンの動きにはためらいがなく、まるで任務を遂行する兵士のようだった。ガロは次第に、相棒がただ“逃げた”のではなく、別の道を辿って“選んだ”のだと気づく。
斧と剣が交錯し、月光が刃を鈍く反射する。激しい一撃の後、レオンはつぶやいた。
「俺たちの選択は違うだけだ。あの夜、俺は生き残り、そして……力ある場所に身を寄せた。空輪会は、虚を利用して人を操る。だが人は、選ぶのをやめる。そいつは楽だ。誰もが楽を望む」
ガロは怒りで言葉を紡ぐ。「それでも、お前はあの夜のことを忘れたのか? 仲間の顔、約束、笑い声。全部消えちまったのか?」
レオンの目に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。だがそれは薄く、すぐに消えた。「忘れたわけじゃない。だが忘却は力だ。忘れることで人は前に進める。お前のやり方は、過去に縛られる。だが俺は前を見た。だからここにいる」
闘いは終わらなかった。だがレオンは最後にガロに言い残した。
「お前は俺を許す必要はない。だがお前が守りたいものを守れ。俺はもう、そっち側にはいない」
影は再び月に溶ける。ガロは斧を地に落とし、膝をついた。胸の中の怒りが、重苦しい喪失に変わる。彼は自分が守った「何か」が果たして正しかったのかを、再び問うた。レオンは空輪会の傘下にあるのか、それともヴェルド自身に取り込まれているのか。答えは霧の中だ。
朝になり、旅団はガロの顔に変化を見た。彼は以前よりも静かで、しかし決意が深まっていた。かつての相棒を追うことは、ガロにとって戦いの理由を個人的なものへと変えた。彼は仲間たちに告げる。
「俺はレオンの行方を追う。真実を知るために。もし奴がここに留まるなら、俺がそれを断つ」
仲間たちは無言で頷いた。ガロの復讐かもしれないが、彼らは理解していた――個人的な傷が、しばしば世界の裂け目を塞ぐ力になることを。トウヤは小さく笑ったが、その目は冷たく光った。
「じゃ、俺も一緒に行くよ。昔の仲間の裏切り話は、酒のいい肴になる」
ユイは紙片に何かを書き込み、ポケットにしまった。「情報網を辿れば、空輪会の痕跡は出るはずだ。リュクスの鏡楼で見た印と一致する場所がある」
リナはガロの肩に手を置き、静かに言った。「過去と向き合うことは痛みを伴う。でも、忘却を与える者たちに負けないで。私たちはあなたの傍にいる」
こうして一行は、新たな目的を抱いて出発した。ガロの個人的な戦いは、やがて空輪会、そして虚竜ヴェルドの計画全体に繋がっていくことになる。レオンという旧友の背中に何が宿っているのか――それが今後の戦局を左右する鍵の一つであることを、誰もまだ知らなかった。