序章 虚竜の前触れ(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  北の海は銀色の縞模様を帯び、漁村ノースリーフの朝はいつもより少し静かだった。カイは古い櫂を抱え、まだ薄暗い桟橋に立っていた。遠くの水平線で、空がゆっくりと裂ける――かすかな亀裂音が耳の奥に届き、海鳥の群れが一斉に飛び去った。やがて空の裂け目から暗い柱が落ち、海の上に黒い影がしみ込むように広がる。

 その瞬間、誰かが息を漏らすように、村中に囁きが走った。過去の古い噂の一語が、空気に触れたのだ。

 『ヴェルド――虚竜ヴェルド。』

 言葉はまるで風を引き寄せる針のように、村の心をチクチクと刺した。カイの掌がふっと暖かくなり、皮膚の下で淡い金色の光が点った。不意に、近くの海藻がはじけて黒い泡が空中に舞い上がる。光はそれに触れ、泡は無音で消えた。

 桟橋の方から柔らかい鈴の音が聞こえた。白い巡礼装束の女が、櫂の上に置かれたカイの手を見つめる。彼女は杖先の鈴を一度鳴らし、静かな声で名を告げた。

「リナ。暁晶の伝承を巡る巡礼の者です。虚竜ヴェルドの名が――もうここまで届いている」

 リナの目は冷たくも慈しみに満ちていた。彼女は言葉を続ける。

「暁晶は世界の季節と魔力を均す結晶。だが、その核が砕かれ、欠片が各守環の塔に落ちた。欠片が“汚れる”と、虚が芽吹き、輪郭が薄れる。あなたの中にある光は『黎光』。暁晶と反応しうる力かもしれない」

 カイは自分の手のひらを見つめた。掌の光は自分の意思とは無関係に、微かに震えているようだった。父の不在、何気ない港の暮らし、幼い日の夢——それらが急に薄く意味を持ち始め、カイは胸の奥で何かが動くのを感じた。世界が、自分を必要としているのかもしれないという予感。

 空の柱が消えた後、海の水面はまた平穏を取り戻す。しかし、波間に残った黒い痕跡は消えず、桟橋の周りの木材に黒い斑点が生じる。村の老人たちは顔を曇らせ、子供たちは泣き出す。リナは静かに立ち上がり、カイに差し出した。

「あなたの光が欠片を清められるなら、どうか共に来てください」

 カイはその言葉を聞き、そして答えた。港の生活を背に、彼の旅が始まった。