第一章 港を出る日と影の印(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  村長テレンは朝日を背に、厳しい顔でカイを見つめた。手にしていたのは、カイの父の短剣。父は遠征に出て帰らなかった。短剣の柄には潮の模様が刻まれている。

「親父さんはなあ……海にヤマを見たまま帰らなかったが、道具は嘘をつかねえ。持って行け、坊主」

 カイは短剣を受け取り、ぎこちなく柄を握る。重さが手に馴染む前に、彼の胸に不思議な重みが広がった。村の人々は出発を見送り、子供たちは目を輝かせるが、成人の目元には薄い影がある。

 村の外れ、石畳の道を歩いていると、ところどころに黒い印が描かれているのに気づく。丸の中を三本の線が絡まり、じっと見るとゆらりと揺れる。リナがそれに気づき、顔を固くする。

「空輪会の印だ。虚に魅入られた者たちが付ける。ヴェルドの追従者は、まず選択を奪う。楽なほうに寄せていくの」

 遠くから軽やかな足取りで近づいてきたのは、短剣と糸巻きを縫い合わせたような手つきの青年だった。薄い外套を羽織り、口元にいつも笑みを浮かべている。名前はトウヤ。旅芸人を自称するが、目はどこか冷たい。

「旅の仲間募集、って看板がないかなーと思ってさ。退屈は旅の大敵だ。俺も混ぜてくれ。面白い噂話を持ってるよ」

 トウヤの軽口は場の緊張をほぐすが、同時に彼の洞察は鋭かった。三人は行く道々で話し込み、やがて来たる困難に備える。夕刻、乾いた野原に焚き火を起こし、トウヤが骨笛を吹く。炎の光の下で、リナは静かに暁晶の話をする。

「暁晶は古代の結晶で、核と環からできています。その環の一つ一つが各地の塔に宿り、世界を保ってきた。だが今、四つの欠片が剥がれ落ち、塔を歪ませる。ヴェルドは——直接その欠片を汚し、虚を生むのです」

 カイは掌の光を確かめるように握っていた。掌は徐々に落ち着きを取り戻し、だが、夜風に触れるとまた小さな火花を弾いた。彼は不安と期待の狭間で眠れない夜を過ごした。

 真夜中、桟橋の方角で大きな音がした。海沿いを走る気配、ひび割れる板の叫び。カイたちは火を消して身を潜める。遠目に見えたのは、黒い影が低く海面を撫でるように動いていく様子だった。影は村の縁に触れると、そこにいた猫や小さな鳥が驚いて消えた。トウヤは唇を噛み、リナは無言で祈りの手を組む。

「これが……ヴェルドの先導する者たちの力か」

 カイは感覚の中で、虚の気配を察した。虚は単なる怪物ではない。人々の選択肢や記憶の端を、そっとなぞる能力を持っている。村人の一部は翌朝、顔色が変わっていた。商人が店の鍵を置き忘れたり、子供が母の名を一瞬忘れたりする。小さな穴が街の記憶に開いていく。

 旅の一行は、暁晶の欠片を探す最初の目的地――風の塔を擁する街、ハドリンを目指して歩き出した。カイは父の短剣をぎゅっと握りしめ、胸に灯る黎光の感覚をたしかめながら、歩を進めた。

序章 虚竜の前触れ(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  北の海は銀色の縞模様を帯び、漁村ノースリーフの朝はいつもより少し静かだった。カイは古い櫂を抱え、まだ薄暗い桟橋に立っていた。遠くの水平線で、空がゆっくりと裂ける――かすかな亀裂音が耳の奥に届き、海鳥の群れが一斉に飛び去った。やがて空の裂け目から暗い柱が落ち、海の上に黒い影がしみ込むように広がる。

 その瞬間、誰かが息を漏らすように、村中に囁きが走った。過去の古い噂の一語が、空気に触れたのだ。

 『ヴェルド――虚竜ヴェルド。』

 言葉はまるで風を引き寄せる針のように、村の心をチクチクと刺した。カイの掌がふっと暖かくなり、皮膚の下で淡い金色の光が点った。不意に、近くの海藻がはじけて黒い泡が空中に舞い上がる。光はそれに触れ、泡は無音で消えた。

 桟橋の方から柔らかい鈴の音が聞こえた。白い巡礼装束の女が、櫂の上に置かれたカイの手を見つめる。彼女は杖先の鈴を一度鳴らし、静かな声で名を告げた。

「リナ。暁晶の伝承を巡る巡礼の者です。虚竜ヴェルドの名が――もうここまで届いている」

 リナの目は冷たくも慈しみに満ちていた。彼女は言葉を続ける。

「暁晶は世界の季節と魔力を均す結晶。だが、その核が砕かれ、欠片が各守環の塔に落ちた。欠片が“汚れる”と、虚が芽吹き、輪郭が薄れる。あなたの中にある光は『黎光』。暁晶と反応しうる力かもしれない」

 カイは自分の手のひらを見つめた。掌の光は自分の意思とは無関係に、微かに震えているようだった。父の不在、何気ない港の暮らし、幼い日の夢——それらが急に薄く意味を持ち始め、カイは胸の奥で何かが動くのを感じた。世界が、自分を必要としているのかもしれないという予感。

 空の柱が消えた後、海の水面はまた平穏を取り戻す。しかし、波間に残った黒い痕跡は消えず、桟橋の周りの木材に黒い斑点が生じる。村の老人たちは顔を曇らせ、子供たちは泣き出す。リナは静かに立ち上がり、カイに差し出した。

「あなたの光が欠片を清められるなら、どうか共に来てください」

 カイはその言葉を聞き、そして答えた。港の生活を背に、彼の旅が始まった。