第二章 ハドリンの風と塔の瘡(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

 門をくぐると、ハドリンの風は明確に違った。塔の風は街に柔らかな流れを作り、埃も香りも均され、どこか安寧を与えていた。しかし、その日、塔の周りはどんよりと重く、広場の旗は垂れ下がり、屋台の布はぬめりを帯びていた。塔の壁には黒い瘡(かさ)のような斑点が広がり、風は淀んでいた。

 塔の麓で彼らを迎えたのは、鎧を身にまとった大男だった。灰色の鬚に深い皺。名はガロ。かつては王国軍の斧兵で、今は街の臨時防衛を仕切っている。彼は警戒心の強さと同時に、どこか守ることに誇りを持つ男だ。

「塔に入るなら覚悟を決めろ。中の風は、ただの風じゃねえ」

 だが、欠片は塔の中心に埋まり、その瘡が塔の魔力を歪めている。リナは静かに欠片の状態を見極める。

「欠片が不安定です。ヴェルドの“虚”が混じっている。単に奪うのではなく、欠片を媒体にして瘡を育てる。瘡は塔の機能を蝕み、風の輪郭を曖昧にする」

 階段を登ると、最初に襲いかかったのは影の群だった。風を纏った黒い鳥のような影が群れ、飛び交う。ガロの斧が重く振られ、枝のように裂かれた影が粉のように消える。トウヤは糸を張り巡らせて影を絡め取り、リナが結界を張り、カイが掌の光で影を浄化する。

 戦いが続く中、カイは自分の力が「浄化」だけでなく「輪郭をとりもどす」性質を持っていることに気づく。掌の光は単に影を溶かすだけでなく、かつてそこにあった形を一瞬だけ取り戻す。欠片の表面に浮かぶ模様が、光によって一瞬鮮やかになり、そのとき塔の風が整う。

 最上層、欠片が据えられた回転盤の前。瘡がその欠片を覆い、脈動するように広がっている。そこから生まれたのは“風の精”と呼ばれるはずのものが歪んだ姿だった。槍のような影の突起が、守りをねじ曲げた形で襲いかかる。

 ガロが槍を受け、トウヤが攻撃の軌道を操り、リナが守りを厚くする。カイは一歩踏み込んで欠片に触れた。瘡の粘膜が指に絡みつき、痛みが走る。しかしその痛みは、彼の内側から何かを呼び覚ました。黎光はただの光ではなく、「記憶と形を取り戻す力」であると、ふっと確信する。

 掌から金色の光輪が弾け、瘡が裂ける。欠片はかすかな呻きとともに澄んだ光を取り戻し、塔の風が戻る。だが、塔の奥底から低く、冷たい声が響いた。風に混じって、嘲るような音色が四人に落ちる。

「よくやった、黎光の担い手よ。だが、それは序章に過ぎぬ。我はヴェルド、虚の竜。暁の光を喰らわせ、世界の輪郭をほどいてやる」

 声は塔を震わせ、残響となって消えた。カイの胸に冷たいものが落ちる。リナは指先で短く印を結んだ。

「ヴェルド……名を聞いただけで、瓦解の気配がする。だが塔は守られた。これで四つの欠片のうち一つは清められたはずだ」

 ガロは肩越しに見下ろして笑う。「いいぜ。俺はこういうでかい相手、嫌いじゃねえ。お前らの背中は任せとけよ」

 だが塔を出ると、町の表情が少し変わっている。人々の間に小さな溝が生まれ、互いの目がそらされることが増えている。空輪会の印が街角で目立ち、そこに触れた者の表情がどこか遠くなる。ヴェルドの影は、塔の外にも広がっているのだ。

第一章 港を出る日と影の印(暁晶の旅団と虚竜ヴェルド)

  村長テレンは朝日を背に、厳しい顔でカイを見つめた。手にしていたのは、カイの父の短剣。父は遠征に出て帰らなかった。短剣の柄には潮の模様が刻まれている。

「親父さんはなあ……海にヤマを見たまま帰らなかったが、道具は嘘をつかねえ。持って行け、坊主」

 カイは短剣を受け取り、ぎこちなく柄を握る。重さが手に馴染む前に、彼の胸に不思議な重みが広がった。村の人々は出発を見送り、子供たちは目を輝かせるが、成人の目元には薄い影がある。

 村の外れ、石畳の道を歩いていると、ところどころに黒い印が描かれているのに気づく。丸の中を三本の線が絡まり、じっと見るとゆらりと揺れる。リナがそれに気づき、顔を固くする。

「空輪会の印だ。虚に魅入られた者たちが付ける。ヴェルドの追従者は、まず選択を奪う。楽なほうに寄せていくの」

 遠くから軽やかな足取りで近づいてきたのは、短剣と糸巻きを縫い合わせたような手つきの青年だった。薄い外套を羽織り、口元にいつも笑みを浮かべている。名前はトウヤ。旅芸人を自称するが、目はどこか冷たい。

「旅の仲間募集、って看板がないかなーと思ってさ。退屈は旅の大敵だ。俺も混ぜてくれ。面白い噂話を持ってるよ」

 トウヤの軽口は場の緊張をほぐすが、同時に彼の洞察は鋭かった。三人は行く道々で話し込み、やがて来たる困難に備える。夕刻、乾いた野原に焚き火を起こし、トウヤが骨笛を吹く。炎の光の下で、リナは静かに暁晶の話をする。

「暁晶は古代の結晶で、核と環からできています。その環の一つ一つが各地の塔に宿り、世界を保ってきた。だが今、四つの欠片が剥がれ落ち、塔を歪ませる。ヴェルドは——直接その欠片を汚し、虚を生むのです」

 カイは掌の光を確かめるように握っていた。掌は徐々に落ち着きを取り戻し、だが、夜風に触れるとまた小さな火花を弾いた。彼は不安と期待の狭間で眠れない夜を過ごした。

 真夜中、桟橋の方角で大きな音がした。海沿いを走る気配、ひび割れる板の叫び。カイたちは火を消して身を潜める。遠目に見えたのは、黒い影が低く海面を撫でるように動いていく様子だった。影は村の縁に触れると、そこにいた猫や小さな鳥が驚いて消えた。トウヤは唇を噛み、リナは無言で祈りの手を組む。

「これが……ヴェルドの先導する者たちの力か」

 カイは感覚の中で、虚の気配を察した。虚は単なる怪物ではない。人々の選択肢や記憶の端を、そっとなぞる能力を持っている。村人の一部は翌朝、顔色が変わっていた。商人が店の鍵を置き忘れたり、子供が母の名を一瞬忘れたりする。小さな穴が街の記憶に開いていく。

 旅の一行は、暁晶の欠片を探す最初の目的地――風の塔を擁する街、ハドリンを目指して歩き出した。カイは父の短剣をぎゅっと握りしめ、胸に灯る黎光の感覚をたしかめながら、歩を進めた。